明治期の研究者や文豪と呼ばれる人々がなぜあれほどまでに外国語を知悉していたのか。それは日本人の、そして日本という国が、欧米列強の植民地にならないための、サバイバルのためのものであった。こうした著者の指摘を俟つまでもなく理解していたつもりではあったが、<普遍語>と<国語>との関係性からの著者の指摘は新鮮であった。
著者が述べるように、<国語>とは<普遍語>を翻訳することから成立した言葉である。日本の明治期を考えれば分かるように、不平等条約を改正するために、フランス語やプロシア語といった当時の<普遍語>の法律用語を<国語>に翻訳し、日本に適した法律を制定する必要があったのである。
こうした過程の帰結として、<国語>は、日常的な会話で使われたり「方言」とも言われる土着の<現地語>よりも世界性を持つことになる。だがそれだけではない、と著者は指摘する。すなわち、<国民国家>が正式に規定する<国語>とはすぐれて近代の産物であり、「世界を鳥瞰図的に見る」という新たな視点を内包した、真に<世界性>をもつ言葉なのである。日本を取り巻く世界や国際関係という文脈の中で、日本という位置づけを相対的に見るための視座を与えるのである。
この一つの現象としてナショナリズムが挙げられる。よく誤解されるようであるが、ナショナリズムという現象はグローバリゼーションの進展と同時並行で進行するものであり、いわば表裏一体の関係と言える。『想像の共同体』でも述べられているように、<国民国家>が成立する上で、<国語>と<国民文学>とナショナリズムとが結びつくことになるのである。
グローバリゼーションという文脈としては、英語が<普遍語>として絶対的な地位を築きつつあるというのが現状である。その結果として、<叡智を求める人>が<国語>をスキップして直接的に<普遍語>にアクセスするという悪循環が生じつつあるとも言えるだろう。
こうした悪循環のはじまりは、<叡智を求める人>が、<国語>で書かなくなるときではなく、<国語>を読まなくなるときからである、と著者は言う。<叡智を求める人>ほど優れたテクストの多い<普遍語>で書かれたものを読もうとすることはいわば自明であろう。その結果どうなるか。<叡智を求める人>は、自分が訴えたい読者に読んでもらうために、<国語>で書こうと思わなくなるかもしれない。その結果、<国語>で書かれたものの質はさらに低下する。当然のこととして、<叡智を求める人>はいよいよ<国語>で書かれたものを読む気がしなくなる、という負のスパイラルが出現するのである。
では、国家レベルでこうした負のスパイラルを防ぐことはできるのだろうか。著者は、日本の国語教育においてまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきであるとする。<普遍語>からの翻訳という闘いの過程で創り上げた日本の近代文学を学ぶことで、<国語>に対する感受性を幼い頃から涵養するべきなのであろう。
著者が指摘するように、<叡智を求める人>が英語という<普遍語>でしか表現をしなくなったときのことを考えるとおそろしい。そうしたときこそがタイトルにある『日本語が亡びるとき』であり、避けなければならないシナリオであろう。豊かな精神世界を現出させるためにも、<普遍語>とともに<国語>におけるリテラシーを私たちは豊かにしていく必要があるのではないだろうか。
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