情報技術の進化が社会を変える、と1990年代後半から言われ続けてきた。実際に、私たちを取り巻く環境は大きく変化し続けている。しかし、それが私たちの意識や政府をどのように変えたのか、そして今後どう変わるのかについての論説はサイエンス・フィクションの域を超えていないものが多い。本書では、情報技術が導く私たちの将来像の一つの仮説を、ルソーやフロイトといった近代思想をもとに、Googleをはじめとした情報技術によって提示している。
まず、ルソーと言えば社会契約論であろう。文字通り、「社会」と「個人」とが「契約」するという考え方であるが、「社会」を国家に「個人」を国民に読み替えるのはミス・リーディングであると筆者は指摘する。国民国家の一員である「私たち」がそのような誤読をすることはいたしかたないのかもしれないが、ルソーは政府と臣民との関係性で契約を捉えていない。社会契約はあくまで政府や国家といった要素とは関係なく結ばれるものであり、そこから一般意志が導き出され、一般意志を体現する主体としてはじめて統治機構が必要となる。
ではこのような一般意志という漠然としたものをどのように考えれば良いのか。一般意志を異なる文脈から支えるのがフロイトの無意識である。近代以降、私たちは肯定と否定とを対比させる論理構造で物事を捉えることをあまりに自明視しすぎているのではないか。こうした合理的な思考が通用しない精神病の患者の非合理的な思考を前にして、フロイトは無意識を現出したのである。ここでいう無意識とは、価値中立的で潜在的な人間の意識にすぎず、合理と非合理の対立構造から抜け出ているものである。
ルソーやフロイトが紡ぎ出した一般意志や無意識といった価値中立的なものは、それじたいに意味を見出すことが難しいために、概念的にはともかく、実際的には事実上無視されてきたと言えよう。しかし、GoogleをはじめとしたIT企業が提供する情報技術というツールによって一般意志が具現化してきたのではないか、という著者の主張は示唆的である。たとえば、Googleのページランクを想起してもらいたい。ページランクはその頁の内容じたいの価値判断はいっさい行わず、そのページがどれほどのページからリンクされているかという参照構造で評価が下される。これは、価値中立性を保って価値判断をするということであり、これが一般意志、すなわち人々の潜在的な無意識をかたちにすると言えるのではないか。すなわち、Googleはルソーやフロイトが思い描いた名状し難い事象を顕在化するツールを提供したのである。
Googleが標榜する、あらゆる情報を記録しオープン化する総記録社会において、情報技術が国家をまたいでネットワーク構造を持つ、という流れはこれからも続くであろう。では国家はなくなるのかという疑問も出ようが、筆者はそうした意見には与さない。国家には近代以降の熟議、すなわち話し合いという間主観的な価値判断の意義があるというのだ。国家を軽々と乗り越えるGoogle、TwitterやFacebookがいわば「1984年」のビックブラザーのように専横化することに制約を掛けられるのは暴力の集積体としての国家の機能と言えよう。むろん、暴力の集積体としての国家の横暴に対してコントロールを加えるのが情報技術の役割であることは、リビアをはじめとした民主化運動を見ればよく分かるだろう。こうした国家と情報技術との相互監視体制が今後のトレンドであり、アメリカ議会でのSOPA・PIPAの両法案をめぐる問題は、今後の典型的な動きとなるのではないだろうか。
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