2012年8月26日日曜日

【第102回】『新平等社会 「希望格差」を超えて』(山田昌弘、文藝春秋社、2006年)


 格差拡大という社会的な問題への対策として、格差をひとまとめに捉えても意味がない。日本社会においてどの格差が拡大し、どの格差は必要悪で、どの格差は縮小すべき課題なのかを切り分ける必要がある、と著者は主張する。

 ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』などをもとにして、著者は現代のニューエコノミーの特徴を「豊かな社会」「IT社会」「グローバル社会」と端的にまとめている。こうした特徴を持つ現代社会においては、多様な人々の多様なニーズをどう把握して具現化するかという「新しい発想とそれを実現できる企画力」と、それを効率的に行う「システム構築力」とが求められる。ここではこうしたスペックを持つ人材を非定型作業労働者としよう。

 非定型作業労働者が活躍できる前提には、企画から落とし込まれた事務作業を粛々とこなす定型作業労働者があると著者は述べる。それは現実的には、一部の非定型作業労働者と大部分の定型作業労働者というかたちで構成されることになるだろう。職務形態という観点のみで捉えるとこうした切り分けが問題であると断じたくなるものであるが、ニューエコノミーが生み出す製品・サービスの受け手の観点からは否定しづらい。ITの進展により利便性が増す生活を企画する主体としての非定型労働者を放棄するという選択肢は取りたくないだろうし、マクロ経済上の観点から考えても望ましくない。

 しかし、定型作業労働者の現状をそのまま肯定するわけにはいかないだろう。職務形態の峻別は必要悪として認めざるを得ない一方で、そうした方々への支援のあり方は改善が求められているのである。定型作業労働者にとって、自分自身が「労働者から期待される存在であるかどうか」という不安の結果として希望格差が生じることは本来は軽減できる問題であり、軽減させる必要がある。

 実際、定型作業労働者の端的な例と言えるフリーターを対象として著者が行った調査において、こうした希望格差が表れているそうだ。具体的な数値は述べられていないが、フリーターを選択した若者のうちのほとんどがいずれは違った立場になりたいと回答したという。さらに、フリーターになった当時の状況はともあれ、フリーターの状況が中長期化している人にとっては、現在の状況はいわば「強いられている」という側面が強い。

 では希望格差が生じる理由はなにか。

 著者はその理由を三つの要因から説明している。第一に努力が仕事能力の向上に結びつかず生産性が上がらないという生産性の要因。第二に生産性が上がっても収入の上昇に繋がらないという収入の要因。第三は努力しても生活水準が上がらないという生活水準の要因。このモデルは、第一の要因が説明変数であり、第二と第三の二つの要因を結果変数と捉えるべきであろう。このように考えると、モティベーション理論に造詣のある方は1960年代のブルームを嚆矢としてポーター=ローラーが1970年代に提唱した期待理論を想起するだろう。モティベーションという作用を、努力がパフォーマンスに繋がる期待と、パフォーマンス向上が報酬の向上に繋がる期待、とに因数分解した期待理論と著者の主張は近似している。すなわち、著者の社会学的なアプローチに基づく主張の妥当性は、心理学の領域からも認められていると言えよう。

 では、努力がパフォーマンスの向上と報酬の向上に結びつかなくなった原因はなにか。著者はその大きな理由は日本における戦後教育のパイプライン・システムの崩壊にあるとしている。つまり、受験勉強という努力を行うことが、偏差値が上がるというパフォーマンスに繋がり、良い会社に入るという報酬へと帰結するかつてのシステムが機能しなくなったことが原因である。

 現代から考えればこのシステムには大きな瑕疵がある。かつて受験勉強において求められたインプット重視型のパフォーマンスは、現代の企業において求められるパフォーマンスと異なるものになった、という点である。現代の企業においては、冒頭で述べた通りアウトプットを前提として、どのような企画を行い、それを実装する効率的なシステムをいかに構築するか、が非定型作業労働者に求められる。したがって、大学に入るまでのインプット型の努力は、非定型作業労働者に求められるパフォーマンスに結びつかなくなったのである。そうであるのに、世間が認める良い大学に入ること自体が今でもゴールであると思われていることが問題の根源であろう。

 こうした誤解はさらに根深い問題を生み出す。同じ学校の同級生の中において、望ましいキャリアを積める人とそうでない人とが生み出されるという現実である。社会において評価されるポイントよ大学入学において評価されるポイントとが全く異なるのであるから卒業後のキャリアに違いが生み出されることは本来当たり前だ。しかし、同じ大学に入るという同じような努力の質と量をしてきたと認識している人にとっては、自分にできなくてなぜ他者にできるのかが信じられず大きな不満となる。学校機関におけるキャリア教育が盛んになりつつあるが、受験指導に汲々としたり、資格取得をいたずらに鼓舞するものが大半であると言われる。これでは大学に入る前に求められるインプット型の学習を助長するだけである。そうではなく、企業や顧客から求められるエンプロイヤビリティーとはなにか、それを身につけるべくどう学生時代の努力をアンラーンして学生以降の生涯学習に繋げるか、といったことを考えさせるコンテンツを提供すべきであろう。

 社会に出る前の学生への取り組みとともに、その後の社会人への取り組みもまた喫緊時である。希望格差は外部不経済を生み出すからである。2008年の6月に秋葉原で起きた痛ましい通り魔事件を持ち出すまでもなく、派遣切りという定型作業労働者は雇用を失うリスクが低くなく、生きる希望を失う方による外部不経済の影響は計り知れない。そうした方々を政府としてNPOとして支援することももちろん重要であるが、日常的には定型作業労働者の方々への感謝の気持ちを持つこともまた重要であろう。人間にとっての希望とは、なにも金銭に集約されるものではなく、他者との日常的なあたたかい関わりの中で生まれるものなのだから。

2012年8月25日土曜日

【第101回】『罪と罰(上・下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)


 小学生の頃、我が家では朝食をとるまえに本を読むことが課せられていた。両親の知人からいただいた日本や世界の「名作シリーズ」が自宅にあったため、自ずとそうした本を読んだものである。日本書紀や古事記をはじめ、信長・秀吉・家康といった歴史上の人物の伝記を読んだのであるが、世界の名作シリーズについてはほとんど記憶にない。『罪と罰』も読んだと思うが、記憶があやふやであり、改めて読むことに少し抵抗はあった。しかし、そうした私の事前の不安を良い意味で裏切ってくれるストーリーで一気に読み終えた。社会風刺、恋愛小説、推理小説といった様々な要素をよくもうまく織り交ぜたものであると感心した。

 その中でも私が最も感銘を受けたのは生と死に対する描写である。最近、宗教学を学ぶ機会があった。そこで大学の先生が「宗教とは極限状態を経験した者にとって救いとなるものである」ということを仰っていたことが心の琴線に触れたようで強く記憶に残っている。本書のタイトルにもなっている通り、人がいかに罪を犯し、罰をどのように受け容れるか、ということは、私の日常的な生活では経験することがない。そうした人間にとって、極限状態をありありと仮想体験できるという作用が小説にはあるのだろう。そうした意味で、究極の状態において生と死をいかに考えるか、という点に惹き付けられたのであろう。

 とりわけ印象に残ったのは、罪を犯した後に生活することがどんなに苦しい状況であっても、死ぬよりも生きることを選ぶことを表す著者の以下の描写である。

 「ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話しだ、ーーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐ーーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!」

 生き続けることが苦以外のなにものでもなくても、死を選択せずに生きる、ということは、生きること自体になにものにも替え難い美質が含まれているということなのだろうか。言葉にするのは難しいが、なぜか印象に残った表現であり、主人公がこの言葉を何度も述べていることを鑑みると、著者も重要なメッセージとみなしていたのであろう。

 こうした生への固執は、罪を犯した主人公が、その後ある男性の死に際して現れる。死を通じて生を思い出す。生きる活力を得て、その後の困難を乗り越えようとする。この場面では、そうした活力が自身の罪を受け止めずに、それを逃れようとするネガティヴな意図のものにはなってはいるものの、活力の再生には惹き付けられるなにかがある。

 生きる活力を得つつも、自身の犯した罪に苛まれる中で主人公は自死を考える。しかし、自死を選ぶことは自身の罪による恥辱から逃げる行為であると主人公は最終的に結論づける。続けて、恥辱を恐れて自死に走ることを避けることを、誇りと肯定的に言い切っている。これは開き直りというレベルの話ではないだろう。主人公の苦悩の様子を追体験することで、誇りとはなにか、人間の尊厳とはなにか、といったことを内省させられる素晴らしいテクストであった。

2012年8月19日日曜日

【第100回】『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎、筑摩書房、2006年)


 日本人の多くにとって唯一神教を理解することは難しい。日本は多神教の社会であるとされているからである。しかし、グローバルな視点から見れば、唯一神教の文化圏の国家が多数であることは事実である。旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった唯一神教が生まれ、そうした宗教を信じる方々と接することは増える一方である。私たちにとって、唯一神教を誤解せずに、その成り立ちや考え方を理解することは必要な態度であろうと思う。

 では、唯一神教とはなにか。本書で最初に扱っているのは上述した唯一神教の中で最も起源が古いユダヤ教である。ユダヤ教においては、神こそが世界の本当の支配者である。その結果として、神の声を聞くことができる預言者の持つ影響力ははかりしれない。そうすると、ある時代の権力者であっても預言者の存在を無視することはできず、ときに預言者が王の悪政を批判することも通常であったという。これは、預言者が体現する宗教的知識と、王が体現する世俗的権力とが分離して緊張関係を築くというダイナミズムが現れている。こうしたダイナミズムが、宗教と政治を分離するという近代合理主義精神を内包していると言えるだろう。

 こうした唯一神教の精神はキリスト教でも同様である。キリスト教という共通のバックボーンがあるからこそ、近代以降において民族ごとの国民国家が成立することになった。すなわち、神は絶対であるが、地上における国民国家は相対的な権力であり、国民による国民国家へのコントロール機能が働き、場合によっては市民が権力を奪い取ることになる。それが市民革命をはじめとした近代合理主義精神のダイナミズムである。

 さらにキリスト教においては、その創始者であるイエスが教義を完成させる前に磔刑にあった。そのため、キリスト教を信じる人々がイエスの死後数世紀にわたってその教義を練り上げたという。そうしたフォーラムの場が公会議である。創始者が教義を完成させなかった以上、公会議の解釈が正当な権威を持つことになり、こうした議論や対話を重ねて真実を創り上げるというプロセスが文化として根付いたと言えるのではないだろうか。

 こうした唯一神教に対して多神教の国として多くの日本人に認識されているのが日本である。唯一神教と多神教とのどちらが優れているということを議論するつもりは毛頭ないが、多神教の持つリスクについては指摘をする必要があるだろう。著者が述べているように、明治政府は宗教の自由を認めつつ、「神道は宗教にあらず」という公式見解を打ち出し、神道、すなわち天皇を中心とする中央政府に国民を従わせようとした。そうした戦前の日本の国家神道が太平洋戦争へと至った。これは青山学院大学教授の西谷幸介教授が『宗教間対話と原理主義の克服』の中で指摘しているように、多神教が単一神教へと変わる傾向とそのデメリットを端的に表している史実と言えるだろう。すなわち、多神教というと聞こえはいいが、多神教という状況においては、多くの神の間の序列を権力主体が操作することで、他の国や宗教に対して寛容でない単一神教に堕してしまいがちなのである。唯一神教圏でない私たちにとって、こうしたリスクについては自分たちの歴史から学んでおく必要があるだろう。

 こうした多神教の内包するリスクに対する認識とともに、著者があとがきで記しているように宗教を私たち日本人は誤解しがちである、という指摘も忘れてはならない。単一神教の暴走を自分たちの国の歴史として経験しているがために、宗教全般に対して否定的な感情を持ちがちである。自分たちへの戒めとして認識することは大事であるが、他方で宗教に帰依する方々を否定することは誤りである。とりわけ、極めて稀な原理主義者の危険性ばかりに目を向けて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるごく普通の人々をも偏見の目で見ることは避けるべきであろう。そのためにも、日本人こそ宗教を学ぶべきなのかもしれない。

2012年8月18日土曜日

【第99回】『知識労働者のキャリア発達 キャリア志向・自律的学習・組織間移動』(三輪卓己、中央経済社、2011年)


 研究において、概念をいかに定義するかはその研究の質を規定する。先行研究は丹念に客観的な網羅性を担保するために丹念に行う必要があるが、それをどのように関連づけるかは自身の研究における関心に依存することになる。したがって、自身の関心に合わせて概念は定義づけられることになる。

 本書は、そのタイトルにもある通りキャリアに関する書籍であり、キャリアの研究を書物にしたものである。シャインや太田肇さんの先行研究を主に参照しながら、キャリア志向を「自己概念に基づいて認識されたキャリアの方向性、長期的に取り組みたい事柄と仕事の領域、働くうえでの主要な目的意識」と定義している。ここに著者の問題意識は集約されていると言っても過言ではないだろう。つまり、キャリアは金井壽宏さんや平野光俊さんの主要論文にあるように回顧と展望という二つの事象に分けて捉えられることが多いが、本書では後者の展望にあたる将来志向性を重視している点に特徴があると言えよう。

 著者の研究課題の一つは、キャリア志向が学習にどのような影響を与えているのか、である。まずは、インタビュー調査による探索的アプローチによって、複合的なキャリア志向を持つようになった対象群が、単一の専門職志向を持つ対象群と比べて、複雑で多様な学習を行っている、ということが明らかにされている。本書は新興専門職とされるソフトウェア開発者とコンサルタントが調査対象である。すなわち、そうした職種において、専門職志向だけではなく、それ以外のたとえば管理職志向といった他の志向をも併せ持つ対象群が現実に適応すべく多様な学習を行っている、という発見は興味深い。

 こうして探索的アプローチで明らかとなったファインディングを精査するために、仮説検証型アプローチとしてアンケート調査を試みている。その結果、上述した仮説が妥当であることが明らかになるとともに、こうした異なるタイプの学習が職務上における高い成果や満足度に繋がっていることを明らかにしている。学習を説明変数に、成果と満足度を従属変数に置いて考えれば、本研究はクランボルツやジェラットといった教育学系のキャリア理論を定量的なアプローチで進展させるものであることが分かるだろう。

 さらに、こうした多様な学習がどのようになされるかについての研究結果もまた興味深い。著者によれば、組織をまたぐキャリアを志向する者であっても、組織を軽視して個人が独力で学習するということは効果的でないと主張する。すなわち、キャリア自律、バウンダリーレスキャリア、プロティアンキャリア、が声高に叫ばれる時代であっても、組織を学習の場として活用することが知識労働者の成長にとって有益なのである。加えて、組織や集団といったグループを重視し、その中で他者と協働する態度や能力が重要であるという著者の示唆は注目すべきであろう。

 こうした新しい知識労働者の成長を促すために、企業には複数のキャリア志向に配慮した人的資源管理が求められることは著者の言を俟つまでもない。しかし、著者が例として挙げているプロジェクト・マネジャーに対してインセンティヴを与えたり、マネジメントの責任範囲の大きさに応じて職務給や役割給の設定が必要、というのは外発的動機付けに傾き過ぎではなかろうか。むしろ、複数のキャリア志向を持つことの有用性を社員の腹に落とし、日常の業務の中でどのようにストレッチするのか、という内的な意識付けへの支援を人事は行うべきであると私は考える。

 本書のように研究者の論理構成は抑制が利いていて心地よい。自身が得た知見が過度に文脈依存的でないかについて丹念に調べ、一般化する方法を検討し、その上で自身の理論の射程距離を明確に制限している。文脈依存性の高いビジネス書ではなく、本書のような研究書が当然のごとく読まれるようになれば、日本企業の知識労働者の生産性の低下が嘆かれる時代は終わるのかもしれない。


2012年8月12日日曜日

【第98回】『タオ 老子』(加島祥造、筑摩書房、2006年)


 一ヶ月ほど前に『論語』の感想を記した時の方法を今回も踏襲し、印象に残った箇所を引用し、それに対する覚え書きを記していくこととしたい。

「道(タオ)の働きは、なによりもまず、空っぽから始まる。それはいくら掬んでも掬みつくせない不可思議な深い淵とも言えて、すべてのものの出てくる源のない源だ。」(第四章)
【メモ】隙間を埋めようとするのではなく、空を積極的に創ること。

「我を張ったりしない生き方だから、自分というものが充分に活きるんだ。」(第七章)
【メモ】我を張り争ってしまうのは弱く限定された自分を守るためのものにすぎない。

「私たちは物が役立つと思うけれどじつは物の内側の、何もない虚のスペースこそ、本当に役に立っているのだ。」(第一一章)
【メモ】空を常に用意しておいて偶機に任せることが創造性を産み出す。

「社会の駒のひとつである自分はいつもあちこち突き飛ばされて前のめりに走ってるけれど、そんな自分とは違う自分がいるーそれを知ってほしいのだよ。」(第一三章)
【メモ】「あきらめる」とは「明らかに極める」と同じ。メタ認知の重要性でもある。

「こういう人だから無理をしないんだ、タオを身につけた人というのは消耗しない。消耗しないから古いものをいつしか新しいものにしてゆく。いつも「自分」でいられて新しい変化に応じられるのだよ。」(第一五章)
【メモ】多少の無理をしても精神を消耗させるまではしない。刷新していくイメージ。

「自分を曲げて譲る人は、かえって終わりまでやりとげる。こづかれてあちこちするかに見える人は自分なりの道を歩いてる。」(第二二章)
【メモ】敵を作らないこと。多少の譲歩が結果的に信念を貫くことに繋がる。

「タオに欠けた相手だったら、君はその欠けたところで付きあったらいいんだ。相手の欠けたところを楽しめばいいんだ。」(第二三章)
【メモ】能力や人徳に劣る人物に対していらつかず、その部分をたのしむゆとりを持つ。

「自分をひとによく見せようとばかりする者は自分がさっぱり分からんのさ。」(第二四章)
【メモ】SNSの危険性。「盛る」ことで自分を見失うリスクに気をつけること。

「他人に勝つには、力ずくですむけれど自分に勝つには柔らかな強さが要る。」(第三三章)
【メモ】柔らかな強さとは自分を拓くことであり、バリューのストレッチングである。

「これが正しいからやる、なんてことばかり主張する人は浅いパワーを振り回してるのさ。」(第三八章)
【メモ】SNSでたまに見る。自戒の意味も含めて気をつける。

「物や生き方を控え目に抑えた時にかえって得をする。」(第四二章)
【メモ】ヴェーバーの考えるプロテスタントの倹約主義と近いか。

「無為とは知識を体内で消化した人が何に対しても応じられるベストな状態のこと、あとは存在の内なるリズムに任せて黙って見ていることを言う。」(第四八章)
【メモ】変化への対応。受容。自ずから然り。

【第97回】『ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学』(森山徹、PHP研究所、2011年)


 認知科学や生物学といった分野を専門とする著者が、ダンゴムシを通じて心的事象を明らかにする研究成果を、新書レベルの簡潔明瞭さにまとめあげたのが本書である。科学的に研究を行うとはどういうことか、を学ぶ上で本書は格好の材料であろう。私自身は社会科学の分野における研究を行ってきたが、本書を読み、自然科学の分野における研究も「科学」という点では基本的に変わらないと感じた。先行論文を論理的に位置づけ、その穴を埋めるような新機軸での問いを立て、実験を積み重ね、知見を客観的に論証し、実践的なインプリケーションを提示する、というアプローチは修士以降の研究に共通するのだろう。修士課程に進むかどうかを検討している学部生や社会人の方は、本書を読んでみて科学的アプローチへの自身の志向性を試してみることは有用かもしれない。

 著者の研究における主たる問いは、題名にもあるように「ダンゴムシに心はあるのか」である。心の動きをどのように外的な事象として捉えるかは細かな問いを積み重ねている本書をお読みいただくとして、端的に「未知の状況」における「予想外の行動の発現」を「心の働きの現前」であると結論づけている。訳が分からない状況、俗にいえば「キャパを超える」ような状況の中で、突如として涙が出たり、大笑いしてしまったり、といった現象を著者は「心の働きの現前」と捉えているのである。

 ではダンゴムシにとっての「未知の状況」における「予想外の行動の発現」とはなにか。著者はさらに細かな問いを設定しながら状況を特定していき、追いつめられたダンゴムシが壁を登る行動を導き出す。ここで重要な点は、なにが既知の状況で未知の状況かを見極めるためには、日常的に対象への注意を持続することが求められる、ということであろう。たとえば、私がダンゴムシを何匹か数分観察したとしても、当たり前の行動が分からないだろう。したがって、私にはダンゴムシが壁を登るという行動の非日常性が分からない。新しい知見を得るためには、毎日同じ観察をし続けるという「待ちの苦しみ」があり、結果が出るか分からない中でのいわば絶望的な忍耐が必要なのである。

 こうした「予想外の行動の発現」が通常は顕在化しないということは、日常的な行動として適切ではない、ということである。これをダーウィニズムでは自然による不適合行動の切り捨てとして、自然淘汰と表現する。しかし、著者は実験結果からのインプリケーションとして、「予想外の行動の発現」とは「適応的でない行動の温存」であり、「潜在させておく」という「柔らかい側面」が生物にはあるのではないか、としている。心というものを考える場合には、著者のこうした「柔らかい」考え方も重要なのではないだろうか。

 こうして得られた知見を著者は本書によって「さらして」いるのであるが、その前の段階として学会で「さらして」いる。著者は様々な分野の人の前で「さらす」ことの重要性を指摘している。実際、著者が本書の研究をベルギーでの国際会議で発表したそうであるが、その出席者のバックグラウンドは多様であり、発表後に著者へ熱心に質問してきたのは哲学者であったそうだ。その哲学者とのやり取りを繰り返す中で、自身の研究を相対化し、またそれ以降の研究の方針も明らかになったという。得られた知見について分野を超えてオープンにしていくこと。字義的には簡単なことに思えるが、実践するとなると難しい。しかし、そうしたチャレンジを繰り返すことが研究者に求められるマインドなのだろう。

2012年8月11日土曜日

【第96回】『生涯発達の中のカウンセリングⅢ 個人と組織が成長するカウンセリング』(岡田昌毅・小玉正博編、サイエンス社、2012年)


 キャリアのカウンセリングというと、知識と技能を持った専門家が社会人や働く意欲を持つ方々に対して行う、ということをイメージする方も多いだろう。しかし、本書を読んで改めて思いを強くしたのは、そうした専門家はあくまでキャリアカウンセラーの一部にすぎないということである。企業の中における人事部員はもとより、部下を持つ人、メンティーを持つメンター、後輩に慕われている先輩、といった様々な主体もまたキャリアカウンセラーである。多様な人々がそれぞれの視点からフィードバックを与えられることにより、社員個人はキャリア上の気づきを得られるのである。

 では、キャリアカウンセラーに求められる資質とは何か。著者は端的に「「常識ある社会的に成熟した人」をめざすという、キャリア支援者自身の生き方そのもの」が問われていると指摘している。思わずハッとさせられる指摘であり、心に常に留めておくべき指摘であろう。先ほど、他者からのフィードバックが気づきを与える、と記した。気づきにはポジティヴなものとともにネガティヴなものもあることを忘れてはいけない。すなわち、フィードバックを与える側の「生き方そのもの」が問われるということは、心ない一言が社員を退出させるリスクをも内包するのである。

 このように考えると、社会人としての経験が浅くフィードバックを受容しきれない新入社員や若手社員に対して企業としてどのように支援するか、という点が重要であろう。ある組織に入って組織の一員として自他ともに認められるまでの過程を組織社会化といい、予備的社会化、現実との直面、適応という三つのステップを踏むと言われる。新入社員の場合には、入社する前の段階における就職活動、人事や先輩社員との交流、親とのやり取りから形成される入社する企業への期待が予備的社会化に当たる。この段階においては、RJP(Realistic Job Preview)などにより企業が内定者に対してありのままの自然体を示すことが必要となる。

 入社後には現実との直面が否応なく待ち受ける。予備的社会化の段階で抱いていたイメージと入社後のイメージには多かれ少なかれギャップがあるのは当然であり、その結果として抱く感情をリアリティ・ショックという。リアリティ・ショックはとかく否定的に捉えられがちであるが、入社後における自己理解や適性を自覚させる契機につながるというポジティヴな側面があることが論文で示唆されている点は興味深い。ただし、適度なリアリティ・ショックは問題ないが、それが大きすぎることが問題であることは想像に難くない。組織コミットメントと上司への信頼感がリアリティ・ショックを軽減するという先行研究は職場での実感と整合的であり、意識しすぎることはないだろう。

 三つめの段階である適応については、先行研究によれば要求される役割の認識、業務の熟達度、職場への適応、の三点で測ることができる。ここで大事な点は、この三つの指標について新入社員が自身でチェックすることができないということである。すなわち、新入社員の側に立てば、自分の目で自身が適応できているかどうかが分からず、不安を覚えがちであるということである。したがって、新入社員や若手社員に関わる人々は、こうした三つの観点を念頭に踏まえた上で彼(女)らに気づきを与える質問を心がけることが重要であろう。上司の自慢話や過去の成功体験を聞かされることが、彼(女)らにこうした三点を気づいてもらうことに寄与しないことは自明であり、十分に留意するべきである。

 このように配属後における上司との関係性が重要であることは間違いない。しかし、上司の多くがプレイングマネジャーであり、またスパン・オブ・コントロールが大きくなる一方の多くの企業においては新入社員をケアする時間が充分でない。そこで新入社員にメンターをつけることがここ十年ほどで定着してきているが、機能している企業はそれほど多くないのではないだろうか。本書を解釈すれば、その問題の本質は、メンターとメンティーを設定した後は人事が彼(女)らを放置してしまうことにあるように思える。

 ではどうするか。第一に、メンターとメンティーとはお互いに学び合う関係であるという点をとりわけメンターに事前によく理解してもらうことである。メンター自身にとって成長・発達の場であるという点を腑に落としておかないと、メンタリングを継続することへのモティベーションに悪い影響を与えかねない。「忙しくてメンターの面倒を見る時間がない」というのはそうしたモティベーション低下の為せる結果であろう。事前に人事が説明会や研修を行うことで、メンターに心構えと最低限のカウンセリングスキルを身につけてもらうことが必要不可欠であろう。

 第二に、メンティーにも事前にメンターとのコミュニケーションについて説明や研修を行っておく必要がある。この観点を企業では見落とし易い。メンティーである新入社員からすれば、上司や先輩やいつでも忙しく思え、メンターに対しても時間を取ってもらうことを躊躇してしまうものである。俗にいわれるホウレンソウをはじめとした職場コミュニケーションの心構えと、新入社員自身が日常的に業務を振り返るフレームワークを伝えておくことが大事であろう。

 第三に、導入後のフォローアップとして、メンターとメンティーそれぞれに対して事例共有会を実施することである。メンタリングがいざ始まれば、良い事例も悪い事例も出てくる。これらを使わない手はない。事例を個人で抱えるのではなく、他者と共有することで良いものは盗み合い、悪いものは原因分析を行うことができる。さらに、失敗したり悩んですることは自分だけではないという気づきを得ることは、メンターおよびメンティーとしての自分に健全な自信を持つことに繋がるだろう。スキルの強化とマインドの涵養が、メンター制度の持続には欠かせない。

 キャリアカウンセリングというと、カウンセリングを行う側に意識がいくが、カウンセリングを受ける側のレディネスをいかに高めるかが必要条件である。先行研究をもとに本書ではキャリア自律を「自己認識と自己の価値観、自らのキャリアを主体的に形成する意識をもとに、環境変化に適応しながら、主体的に行動し、継続的にキャリア開発に取り組んでいること」と定義している。企業におけるあらゆる社員がキャリア自律するために支援をすることが、今後ますます企業には求められるだろう。

 カウンセリングとは関係性の中でお互いに学び合うことである。論語にも「学べば則ち固ならず」(学而第一・八)とある。多様な学びを得つづけることで、自身に固執せず、多様な他者への共感性を育むことができる。むろん、ここでの「他者」とは内なる他者をも含むものであり、それはすなわち、学びつづけることが自身を拓き、内なる可能性を開発しつづけることである。

2012年8月5日日曜日

【第95回】『「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト』(酒井穣、光文社、2010年)


 キャリアをチェンジさせるタイミングにおいては回顧と展望が大事である。これはキャリア論の様々な研究者が、それぞれの立場の相違を超えて異口同音に認めている点であると言えるだろう。キャリアをチェンジした今このタイミングで、人材育成および組織開発を担当する者としての私のキャリアを回顧し展望する上で、これほど適した書籍は他にない。

 本書は既に何度も通読している。今回、私のような職責にいる立場の人間にとっては必読書であることを改めて認識した。Amazonの書評には「現場のリアリティ感がない」「他の本のいいとこ取り」「具体的アプローチが足りない」といったネガティヴな評価も散見されるが、他社にとって役立つ事例としての書籍を目指せば、先行研究を行った上で抽象度を高めることはむしろ当前であり誠実な姿勢である。こうしたことを書くレビュアーは、自身の職業人としてのプロフェッショナリティや研究リテラシーの欠如を白状しているだけにすぎないだろう。換言すれば、本書はハウツー本を期待する方々には向かず、自社における人材育成を真剣に考えて日々悩みながら実践を積み重ねる方々に適したテキストと言えよう。

 著者は、人材育成が求められる社会的な背景から、誰を、いつ、どのように、誰が、育成するかという四点について先行研究を交えながらコンパクトにまとめている。

 まず育成の対象者について。CCLの元研究員の主張をもとに、企業における人材は学習能力の観点から三つに分けて考えるべきであると著者は指摘している。すなわち、自らすすんで職務を通じて学ぼうとする積極的学習者、他者から何らかの刺激を受け納得すれば学ぶ消極的学習者、新しいチャレンジをしようとせずに言われたことをこなす学習拒否者、という三つのタイプである。企業の中で多数派を占める消極的学習者に育成の力点を置くことがキーになるという点は間違いないだろうが、積極的学習者を放置しても良いというのはやや言い過ぎであろう。むしろ、積極的学習者どうしが部署を超えて繋がることを支援したり、サクセッション・プランを通して中長期的な育成をはかることが求められるのではないだろうか。

 とはいえ、消極的学習者への支援が人材育成のメインの業務になることに異存はない。ではどのように育成するのか。著者はウルリッチの指摘をもとに四つの象限に基づいた役割ごとのコンピテンシーセットをもとにして育成することを指摘している。コンピテンシーの利用について賛否両論があることは理解しているが、こと育成のためにコンピテンシーを用いることには私は賛成だ。ただ、本書で挙げられているものよりは粒度を細かくして用意する必要があるだろう。なぜなら、コンピテンシーを用いて日々の育成を行うのはあくまで上司であり、自分自身なのである。彼らが日常的に使えるレベルになっていなければ、宝の持ち腐れになってしまう。したがって、制度企画系の人事と人材育成とが協働して、慶應義塾大学の花田教授が主張する「成長のロードマップ」としてのコンピテンシーを提示することが必要なのではないだろうか。

 次に、特に教育に注力すべきタイミングとして著者が教育的瞬間を挙げている点にも賛同する。以前のキャリアにおいては、「内定から入社三年目程度までの新入社員期間」の育成のしくみ構築と実施にフルコミットさせてもらった。また、他国の重要なメンバーと自社との協働を促すための「新しいメンバーで新規プロジェクトが立ち上がるとき」の研修や、自社の中枢を担う「中途入社の入社前から入社後3ヶ月程度の期間」の研修の一部を担えた。こうした教育的瞬間において教育に携われたことは貴重な経験であり、感謝している。現職では、こういった教育的瞬間をとらまえた育成への関与とともに、日常の中でとりわけ消極的学習者がストレッチできるしかけを設けることが企業を成長させると考え、私自身の課題でもあると考えている。

 最後に、誰が教育を担うかという教育の主体についてである。ここでも著者の主張に違和感はなく、とりわけ企業単位を超えたレベルで学び合える環境を設けることは必要であろう。私自身は約60カ国で展開するグローバル企業での組織開発・人材開発を担うため、他国のL&DやOD担当者との健全な競争にフォーカスを当てている。野茂がメジャー、中田がセリエで活躍している姿を見て多感な時期に感動した私にとって、海外と「勝負」できることは本望である。ダルビッシュではないが、日本企業における人材育成への海外からの低評価に対して忸怩たる思いもある。むろん他国のL&DやOD担当者との切磋琢磨がHQやグループ全体にとってポジティヴなものになると確信しているし、将来的には国内外の他社にとっても貢献できる一つのプラクティスになると信じている。

2012年8月4日土曜日

【第94回】『医薬品メーカー勝ち残りの競争戦略』(伊藤邦雄、日本経済新聞出版社、2010年)


 ここ数年の医薬品メーカーのビジネスについて学ぶ上でこれほど適した書籍は他にないかもしれない。とりわけ、私の興味関心に合った部分を中心にまとめてみたい。

 まず医薬品の価格の決定プロセスについて。よく知られているように、医薬品メーカーは日本市場において自由に価格を設定することはできない。薬価はだいたい二年ごとに改定されることになり、「改定」とはすなわち安価になるということを意味する。本書によれば、薬価の下落率に最も大きな影響を与えるものは、医薬品の市場実勢価格であり、換言すれば卸が小売へ販売する納入価格が影響を与える。したがって、納入価格をいかに下げずに薬価との乖離率を小さくするか、がメーカーにとってのポイントとなる。

 しかし、ここで大事な点としては、メーカーは直接的に小売と価格交渉を行うことができない点である。納入価格は、卸と小売とが交渉することで決定されるのである。こうなると、メーカーとしては間接的に納入価格に影響を与えることしかできない。どうするか。卸への販売価格である仕切価格を高く設定するために、納入価格を高くするインセンティヴを卸に与えることが重要となる。つまり、リベートによって仕切価格と納入価格とのいわば売買「差損」をメーカーが補填するということになるのである。

 その結果として、メーカーは卸との関係性を良好に保つことが重要となる。その一つの方法として、メーカーが卸に資本を注入するという手段が出てくる。実際、大手卸の大株主には新薬メーカーの名前がずらりと並んでいる。こうなると、資本関係のないGEメーカーとしては卸を効果的に利用することが難しくなる。そのため、GEメーカーは以前、卸を利用せずに独自の販売網を築くことを行ってきたのである。

 ところがここ十年弱の間に、GEメーカーは卸との関係性は良い方向に変わりつつある。端的に言えば、卸の側にGEメーカーから薬品を購入する誘因ができたからである。それは、多くの病院で経営が悪化しているために、病院から卸への価格プレッシャーが強く、卸が利益を確保するためには少しでも安い薬価で変えるGEメーカーに頼らざるを得なくなっているからと著者はしている。驚くことに、約70%もの病院が赤字に陥っているというから、事態は逼迫している。

 現実的には2003年に政府が導入したDPC(診断群分類別包括評価)という医療費の支払に関する制度がGE普及を後押ししていると言える。これは、診療行為ごとに実際に掛かった費用に応じて診療報酬額を計算していた従来の方式から、診療行為に応じて分類点数をもとに固定額を支払う方式への変更を生じるものであった。したがって、同じような効用の薬品を用いる場合には、薬価の安いGEを用いる方が、病院にとってはメリットがあるという方式であることは自明であろう。実際にDPC対象病院においてはGEの導入が進んでいることが厚労省の2009年のデータからも見て取れる。

 こうした追い風要因がある中で、GEメーカーにとっての死角はないのか。それが病院とともに重要な小売のアクターである薬局である。つまり、多くの薬剤師がGEを積極的に扱いたがらない現実がまだ存在するのである。少し考えれば想像がつくが、患者の健康や疾病に大きな影響を与える薬品を扱う薬剤師にとっては、自身が詳しくないものを扱うことはためらうのである。患者への説明に労するコストや、限られた在庫スペースに新たな品目を置くことに躊躇する薬剤師の心理的な不安は想像にかたくない。

 しかし、そうした不安への解消はMRの営業努力によって軽減することが可能であろう。薬剤師の不安を取り除くまで薬効を説明すること、どのようにストックすれば効率的に在庫を管理できるかの提案、といったことは提案営業であれば当たり前のことである。GE普及に向けての一つの重要なキーはMRの営業力向上、と言えるのではないだろうか。