2013年11月30日土曜日

【第225回】Number842「W杯出場32カ国を格付する。」(文藝春秋、2013年)

 W杯優勝国の予想に関する本誌のモウリーニョへのインタビュー記事を読み、愕然としてしまった。

 私はスペインは優勝できないと考えている。 最大の理由は、ワールドカップにおける連覇の難しさだ。スペインは2008年ユーロ、2010年ワールドカップ、2012年ユーロと、主要な国際大会で6年間も勝ち続けている。当然、対戦国はスペインに対して分析や研究を行ない、十分な対策をとってくる。サッカーにおいて難しいのは勝つことよりも、勝ち続けることなんだ。(27頁)

 スペインは連覇ができないと断言しているが、彼の論旨には矛盾がある。彼は対戦国が分析や研究をして対策を講じるために主要大会の連覇は難しいとする。しかし、ここでも述べているように、スペインは、現にユーロを連覇しているのだ。対策を講じられようと勝ち続けているのである。W杯を連覇できないという彼の発言には論理矛盾があることは明らかだろう。

 断っておくが、私はモウリーニョのファンである。しかし、それ以上にスペインサッカーへの愛情が強い。自分の願望を否定しようとする方のあら探しはここまでにして、目前に迫ったW杯ブラジル大会を特集した本号から、三つほど興味深い記事を取り上げたい。

 まずは、遠藤保仁選手へのインタビュー記事から。

 今、大事なことは結果がどうあれ自分たちのサッカーを変えずに最後までやり抜く事でしょ。チームが強くなるには、そうして貫いた中でできたこと、良かったことを地道に積み重ねていくしかない。(20頁)

 勝ち試合の後にこうした発言をするのは優等生発言と捉えられ、負け試合の後に述べれば言い訳のように捉えられがちだ。しかし彼は、8月にウルグアイに負けた後も、9月のガーナに勝った後も、そして世界ランク5位のベルギーに勝った11月においても同じ趣旨の発言を繰り返したそうだ。ぶれずに自分自身およびチームのサッカーを信じ続けること。これは仕事でも大事にしたい考え方であり、分野を問わず、プロフェッショナルの言葉には気付かされるものが多い。

 次に、本田圭佑選手の記事を見てみよう。

 勝ったときというのは、良かった点に目を向けるのではなく、悪かったところに意識を向けないと。もう僕は頭の中で分析して、試合が終わってからある程度の整理がついている。(中略)僕だけじゃなくて、全員がそこを意識しないといけない。(23~24頁)

 前半はマインドセットに関して参考になる。「勝って兜の緒を締める」ではないが、勝った時は気分が良いために、他人のフィードバックを素直に聴き、厳しい点に目を向けて改善を行う気持ちの余裕があるものだ。後半では、こうしたことを自分一人ではなく、何を是として何を非とするかをチームとして共有し、同じ理想を描くことの重要性を指摘している。己に打ち勝つ強い個が前提としてありながら、チームとしての成熟度を高める姿勢。今大会の日本代表のサッカーに興味がわいてきた。

 最後に、スペインの強さの分析に関する心地よい記事を扱うこととする。

 どの国も真似できない華麗なパスサッカーで欧州と世界の頂点を極めたチームは、ベースとなる選手や戦術には手をつけず、活きのいい“新人”を加入させて進化を続けている。(52頁)

 戦略やゴールイメージを共有させながら、新しいタレントを少しずつ引き入れて、チームに浸透させる。他国を寄せ付けず、美しくエレガントに勝つサッカーにまた魅了されるブラジル大会が今から待ち遠しい。



2013年11月24日日曜日

【第224回】『変革型ミドルの探求』(金井壽宏、白桃書房、1991年)

 名古屋に引っ越してから、自宅の近所にある図書館を利用することが増えた。本書も図書館で借りて読んだのであるが、数頁にわたって書き込みがあった。重要な点に線を引いたりキイワードが抜き書きされていたりするのではなく、文末の口調を書き変えるだけのものである。私にも似た経験がある(むろん、書き込みをしたことはない)のだが、学生がレポートやプレゼンテーションをするために書物を調べて、適したテクストとして本書を借りたのだろう。自分が書きたいテーマや主張に近いものを参考にしようとしながら、いざレポートを書き始めると愕然とする。著者が言いたいこと以上のことが思いつかないのである。どう考えても、自分の内奥からなにかを取り出そうとしても何もアウトプットできない部分について、著者の文章を拝借する。こうしたことが背景にあっての鉛筆書きだったのではないだろうか。

 コピー&ペーストのみでレポートを書く行為の横行は学生教育にとって由々しき事態であるが、適切な良書を自分で選び、適切な引用をすることは奨励されるべきだ。そのためにも、研究のあり方や方法、とりわけ先行研究について学生時代には学んでおきたいものだ。いわば、学び方の学び方というメタな学習経験の獲得である。私自身、学部時代には研究については理解していなかったために修士時代に苦労をしたのであるが、高等教育機関において研究活動を経験しないことは実にもったいない。研究活動は、その後の社会人生活においても、物事を考えてアウトプットをする上で極めて有用な示唆を与えるものだからである。

 いささか前書きが長くなった。本書のような研究書を読むと、自身の研究活動を思い返して自省的なモードに入るようだ。

 本書の研究は、ミドル・マネジャーに焦点を当てて、管理者行動について明らかにしようとするものである。分析枠組みは、タスクの特性と管理者行動との関係性によって、業績、職務満足、有能感、成長感、有意義感、職場活性化のタイプ、といった成果変数へと繋がるというものである。

 分析の結果として明らかとなった発見事実はどれも興味深いものである。中でも実務において示唆に富んだものについて以下から四点ほど見ていくこととしたい。

 【発見事実2】 育成の次元が、タスク不確実性との結びつきで他のどの次元よりも強い。不確実性が高くなると、部下を信じて思い切って任せざるをえない。(337頁)

 不確実性が高い状態とは、日々の業務がルーティン的ではなく、求められるタスクの目標や職務行動の変更が激しい状態である。ビジネスを取り巻く環境変化が激しく、職場において働く社員の多様性も拡大する現代の企業においては、不確実性が高い職場が圧倒的であろう。そうした状況化においては、マネジャーが現場を取り仕切って、行うべき行動を事細かに説明し、逐次モニタリングする、という行動は不可能だ。部下にデレゲーションすること。さらには部下を信じた上でデレゲーションを行うことが求められるのである。

 【発見事実9】 事前に予測されていなかったが、信頼蓄積の次元とタスク不確実性との間で業績に対する交互作用効果がみられた。モデリング促進も、それより弱いが交互作用効果があった。高タスク不確実性のもとでより望まれる行動は、信頼蓄積とモデリング促進である。不確実な状況では、リーダーとしてのクレディビリティや管理者のもつノウハウ、自部門や他部門のスター人物からの観察学習が可能となる。(340頁)

 不確実性が高い流動的な職場環境において、信頼の蓄積が業績に影響を与えている事実に着目するべきだろう。【発見事実2】との関係で言えば、部下への積極的なデレゲーションが機能するためにはリーダーへの信頼が蓄積されていることが土台となる。信頼されていないリーダーからの指示であれば、それがいかに組織やメンバー自身の発達にとってためになるものであっても、機能しない。ただし、メンバーの目線に立てば、自身の上司に依存することは必ずしも必要ないことをもこの発見事実は示唆している。部門の枠を超えてロールモデルとなる他者からの観察学習によって自分自身を高めれば良いのである。

 【発見事実12】(一部のみ抜粋) 戦略的課題の提示および革新的試行の次元とタスク依存性との間に(業績に対する)交互作用効果がみられた(342頁)

 本研究の眼目は、決められた業務を決められた手順で行うことをマネジするという旧来のマネジャー像ではなく、新しい変革型のマネジャー像を明らかにした点にある。こうした文脈から捉えれば、本発見事実は至極当たり前の帰結とも言える。すなわち、組織として求められる戦略のカスケーディングを担うミドル・マネジャーは、不確実性の高い職場において日々のトライアルアンドエラー、すなわち革新的試行が求められる。こうして新しい働き方を試みることによって、他チームや他部門とを巻き込みながら仕事を進めることが求められるようになると、部署やステイクホルダーを巻き込んだタスク依存性は高まらざるをえない。【発見事実9】を踏まえれば、タスク依存性が高い状況下においては、上司部下間だけではなく、依存関係にある各メンバーとの信頼蓄積がキーとなるだろう。

 【発見事実16】 育成の次元の効果も信頼蓄積に左右される。つまり、日常的に信頼を蓄積していないと、思い切って部下に任せて育成しようとしても、部下はあまり燃えない。(345頁)

 上司の視点に立てば育成と呼ばれる事象は、メンバーの視点に立てば成長/発達と呼ぶことができる。自身の成長/発達が本人の為にならないことはない。しかし、そのためにはチャレンジがセットで必要となることが多い。そうしたチャレンジングな職務は、通常、直属の上長から任されるものだ。その際に、上司への信頼が蓄積されていないと、上司としてはチャレンジングなデレゲーションと認識されていても、部下からはそのように捉えられない。【発見事実2】から不確実性の高い現代の職場においてリーダーはメンバーに大胆なデレゲーションが求められるが、信頼蓄積が足りない場合にはそれは「丸投げ」にしか見えない。現代における職場の機能不全の病床はこの辺りにあるのではないだろうか。

 こうした発見事実をもとにして、著者は以下のようにポイントを簡潔にまとめている。

 これらの仮説検証のプロセスを通じて判明した最も顕著な発見事実は、管理者行動の効果を左右するモデレータ要因として、タスク不確実性よりもタスク依存性がはるかに重要だということである。ミドルという立場の本質的属性は、タスクを遂行するのに部下だけでなく、上司や他部門にも依存せざるをえないことである。タスク不確実性(タスクを遂行するのに十分な情報をもっていないこと)は、管理者や経営者のおかれた状況を特徴づける。しかし、それはミドル・マネジャーにだけ固有の挑戦課題ではない。依存性対処こそミドルに固有のタスク・コンティンジェンシー要因であることが、本章でわかった。(347頁)

 発見事実をもとにしながら、著者は、旧来のマネジメント像を<表マネジメント>と呼んだ上で、対比的に<裏マネジメント>の重要性を指摘する。詳細は表11−1(360頁)を参照いただきたいが、時代が変われば求められるマネジメントのスタイルも変わる。<表マネジメント>が廃れるわけではないが、マネジャーとしては<裏マネジメント>を意識し重視する必要性が増していることは厳然たる事実であろう。おそらく、最も悲劇的な事象の一つは、マネジャー本人は<裏マネジメント>を意識しているつもりが、部下からは<表マネジメント>にすぎないと映っているケースであろう。

2013年11月23日土曜日

【第223回】John C. Maxwell, “The 21 indispensable qualities of a leader”

This book seems to me a casual essay, but brings us some important implications in our business and private life. In this book, there are especially two impressive chapters for me.

Firstly, I’m going to write about chapter 2, “Charisma : the first impression can seal the deal”. 

Most of us regard charisma as an innate talent which can’t be attained in our lives. But, the author doesn’t have such attitude to it.

Charisma, plainly stated, is the ability to draw people to you. And like other character traits, it can be developed. (No. 191by Kindle ver.)

According to him we can obtain charismatic character even after our birth. Then, how to do it?

If you appreciate others, encourage them, and help them reach their potential, they will love you for it. (No. 206 by Kindle ver.)

It is important for us not to be concentrated on ourself, but to make attention for other people carefully and to believe their potential strongly. Such warm and continuing attitude to others will cause charismatic relationship between them and you. So, charisma is not a trait which some person has, but a relationship between some person and you.

Secondly, let’s talk about chapter 8, “Focus : the sharper it is, the sharper you are”.

As most of us understand, it is important for us not to allocate our resources into every factors equally, but to prioritize intentionally. Cited from the author’s comments, there are three strategies about how to allocate our resources.

1) Focus 70 Percent on Strengths (No. 698 by Kindle ver.)

We sometimes tend to be focused on our weak points, because we’re  always given negative feedbacks when we mistake something caused by weakness. Whenever we’re given them, we have to be faced on our weakness. But, cited with the comment by Peter Drucker, the author suggests that we should focus on our strengths. In order to accomplish something, we have to focus on our strengths, just because it will be reasonable and effectively to use them.

2) Focus 25 Percent on New Things (No. 698 by Kindle ver.)

Though it is important to focus on our strengths, they will be changed in order for us to adjust to our environments and to meet expectations from surrounding people. As the author says, “Growth equals change. If you want to get better, you have to keep changing and improving.” (No. 698 by Kindle ver.)

3) Focus 5 Percent on Areas of Weakness (No. 713 by Kindle ver.)

We ONLY allocate 5 percent on our weakness. The most important strategy to care about our weaknesses is to minimize the negative impact brought by them. Then, if we can delegate our tasks which are related to our own weak points, we should optimize our resource as one team.


2013年11月17日日曜日

【第222回】Number841「東北楽天、9年目の結実。」(文藝春秋、2013年)

 昨年、一昨年のエントリーでも書いたが、Numberの日本シリーズ特集号は毎年欠かさずに買い求めている。日本シリーズの覇者は、2011年のソフトバンク(Number792「ホークス 最強の証明。」(文藝春秋社、2011年))、2012年の巨人(Number816「日本最強のベストナイン」(講談社、2012年))と続いて、今年は楽天だ。

 まずは、楽天のエース田中将大投手の言葉から。

 「最後までマウンドに立ってやろうという気持ちはありました。投げミスが多く、こういう大事なところで出てしまったのは、自分の力のなさです。今シーズン、もっときつい時があったし、コンディションはいつもと変わらなかった。最後は球場がどうやったら盛り上がるか考えました。三振をとれたのはよかった。明日は自分のできることをやりたい」(21頁)

 シーズン中に24勝0敗という金字塔を立てた彼が、ポストシーズンとは言えども唯一負けた試合の後に残したコメントである。記録が途絶えたことに対する悔しさではなく、客観的に試合を振り返ることのできる冷静さ。これこそが田中投手の類い稀な才能の一つなのではないだろうか。さらには、160球の熱投の後にも関わらず、翌日の第七戦を見据えた発言をしている点にも脱帽だ。

 次に、敗軍の将となった巨人の原辰徳監督の言葉について述べたい。彼は『真の強い組織とは』という題目で今夏のAKB48のドームツアーに文章を寄せたそうだ。その中で、「集団を支える個の技術」「リーダーの非情さ」「”孤独”の解消」の三つのその条件として挙げたとされている(34頁)。

 リーダーシップというような包括的な概念を用いずに、敢えてリーダーの「非情さ」に限定しているところが面白い。選手起用の権限のある監督としての自分自身に試合の勝敗の責任を負わせるような厳しさが垣間見える。本誌での論考では、原監督が非情になりきれなかったことが敗因の一つとして提示されているが、果たしてどうか。一手に勝敗の責任を負おうとする彼は「真の強い組織」にふさわしいリーダーの一人だろう。

 最後に、日本シリーズとは関係はないが、ジョゼ・モウリーニョの言葉を取り上げたい。

 「毎試合前、ホテルの部屋で2分かけて読んでいる。聖書をランダムに開いて、目に留まった章をたどる。そこには救いや希望がある。私はそれで少しだけ前向きになることができる。それは心に平穏を与えてくれるメッセージのようなものなんだ。」(95頁)

 インタビュアーの「聖書は読みますか?」という質問への回答である。大言壮語をして選手を奮い立たせ、自身へプレッシャーをかけ続ける彼が、試合に臨む前に聖書を読んでいるという事実はいささか意外だ。しかし、自分を厳しく律する姿勢を持ちながら、同時に何かに自分を委ねる一瞬を持つこと。これが強いリーダーシップを発揮する上での礎の一つになっているのかもしれない。

2013年11月16日土曜日

【第221回】『戦争と平和(四)』(トルストイ、工藤精一郎訳、新潮社、1972年)

 まず、アンドレイ公爵とピエールとの対比をもとに検討を試みる。

 『そうだ、あれは死だった。おれは死んだーーとたんに目をさました。そうだ、死はーー目ざめなのだ』と、ふいに彼の心の中にひらめいた、そしてこれまで知りえぬものをかくしていた帷が、彼の心の目の前に開かれた。彼はそれまで縛られていた身内の力が解放されたような気がして、それ以来彼を去らなかったあのふしぎな軽さを感じた。 彼が冷たい汗をかいて目をさまし、ソファの上でわずかに身体を動かすと、ナターシャがそばによって、どうなさったの、とたずねた。彼はそれに答えなかった、そして彼女の言葉がわからずに、ふしぎそうな目で彼女をみた。(121頁)

 死の直前に最愛の存在を前にして、絶対的な孤立をアンドレイ公爵は感じる。その孤絶感こそが、目ざめであり、目ざめることとは彼にとって死を意味することであった。これと対照的な著述がピエールの感覚の描写に表れている。

 結婚生活七年後にピエールは、自分は悪い人間ではないという、うれしい、確固たる自覚をえた、そしてそう自覚したのは妻の中に映し出されている自分を見ていたからだった。自分の中には、彼はすべてのよいものと悪いものがまじりあい、たがいに影を落し合っているのを感じていた。しかし妻に映っている彼の映像は、真によいものばかりだった。いくらかよくないところのあるものはことごとくはねのけられていた。そしてこの映像は論理的な思考の方法からではなく、別なーーふしぎな、直接的な方法から生れたのだった。(501~502頁)

 同じ愛する存在を前にしている状況においても、アンドレイ公爵が孤独から目ざめを意識したのに対して、ピエールは妻という存在から自分を意識する。アンドレイ公爵が戦争で負った大けがによって死ぬのに対して、ピエールは妻と子どもたちと平和に生きている。生と死、孤立と連帯、戦争と平和。アンドレイ公爵とピエールとを対比させながら、この大作は完結を迎えるのである。

 次に、戦争について。

 当時フランス軍が占めていたその輝かしい状態を保持するためには、思うに、特別の天才など必要としないはずである。そのために必要なことは、軍に略奪を許さず、モスクワで全軍に支給するだけ手に入れられたはずの冬の衣類を用意し、モスクワにあった全軍を半年以上養うことのできる食糧(これはフランスの歴史家たちの指摘するところである)を確実に掌握するという、きわめて簡単で容易なことを実行することであった。ところが歴史家たちの認めるところによれば、この天才の中の天才で、軍を支配する力をもっていたナポレオンが、これを何もおこなわなかったのである。(155頁)

 なぜフランス軍はロシア軍に負けたのか。戦争の天才ナポレオンはなぜ負けたのか。演繹的にゴールから落とし込んで戦術を打っていくわけではない。一つひとつの積み重ねこそが戦争なのである。そしてそれは、一つの失敗が次々に連鎖していくものでもある。

 規則による決闘を要求した剣士は、フランス軍であり、剣を捨てて、棍棒を振上げた相手は、ロシア軍である。フェンシングの規定の中ですべてを説明しようとする人々が、ーーこの事件を書いた歴史家たちである。(221~222頁)

 フランス軍の打った手が合理的でなかったということではない。喩えれば、サッカーをまっとうに行おうとするフランス軍に対して、ロシア軍は敢然と手を使ってボールをゴールに押し込んだのである。公然としたルール違反が許されたのは、領土の問題もあろう。すなわち、ロシア軍は「自分たちの国土」というナショナリズムを喚起されるものであり、是が非でも守らなければならないものであった。そうした感情が、冷静にルールを守る姿勢を遠ざけたのであろう。

 戦争のいわゆる規則からのもっとも明白で有利な逸脱の一つは、かたまりあっている人々に対する、ばらばらな人々の行動である。この種の行動は、戦争が国民的な性格をおびた場合に常にあらわれるものである。このような行動は、集団と集団の対決という形のかわりに、分散して、小人数で襲撃し、大きな力を向けられると、すぐに逃げ、機会をねらって、また襲撃するという方法である。スペインでゲリラがとったのがこの行動であり、コーカサスの山岳民がおこなったのがこれであり、一八一二年にロシア人がおこなったのがこれであった。 この種の戦いはパルチザン戦法と称され、こう名づけることによって、その意味は説明されていると思われてきた。ところがこの種の戦いは、どのような規則にもあてはまらないばかりか、神聖なものと認められている一定の戦術上の法則にまっこうから対立するのである。法則は、攻撃する者は、戦闘の瞬間に敵よりも強力であるために、その兵力を結集しなければならぬ、と語っている。 パルチザン戦法は(常に成功であることは、歴史が示しているところだが)この規則にまっこうから対立している。(223~224頁)

 相対的に劣位にある国民国家はパルチザン戦法をとることが往々にしてある。それは自然の発露であるとも言える。ベトナム戦争でも有効であり、テロリズムもこの戦法の応用と考えることはできるだろう。戦争とはなにか。守るべきものはなにか。戦争という一つのテーマをもとに、様々なことを考えさせられる。

 最後に、歴史について。

 機関車の運動を説明しうる唯一の概念は、目に見える運動に見合う力の概念である。 諸民族の運動を説明しうる方法となる唯一の概念は、諸民族のすべての運動に見合う力の概念である。 ところが、さまざまな歴史家たちが、じつにさまざまな、目に見える運動にぜんぜん見合わない力を、この概念の意味と見ている。ある者はそこに、英雄に本来そなわっている力を見ている、ーーこれは百姓が機関車の中に悪魔を見るようなものである。ある者はーーいくつかの力から派生する力を見る、ーーこれは車輪の回転のようなものである。またある者はーー知的影響を見る、ーーこれは風に流される煙のようなものである。 それがシーザーやアレクサンドルにせよ、ルターやヴォルテールにせよ、個々の人物の歴史ばかりが書かれて、すべての人々、一人の例外もなく、事件に参加したすべての人々の歴史が書かれないあいだは、ーー他の人々をして一つの目的を目ざす活動に向けさせる力を、個々の人物に帰さぬわけにはいかない。そして歴史家たちが知っているただ一つのこのような概念が権力なのである。 この概念こそ、現在の叙述法に際して、歴史の在留を自由にこなすことのできる唯一のペンなのである。(570頁)

 私たちはとかく特定の「歴史的」人物が「歴史」を創っていると捉えがちである。藤原道長が貴族政治の礎を築き、源頼朝が武家政治を確立し、坂本龍馬が近代社会を創った、と教わることが多い。しかし、著者はある時代に生きている一人ひとりの営為の連なりが歴史を作るという歴史観をここで提示している。『戦争と平和』においても、ナポレオンを特別視せず、また冬将軍とも呼ばれるロシア軍によるフランス軍撃退をも一つひとつの部隊や個人の営為の為せる業であるとするのである。


2013年11月10日日曜日

【第220回】『戦争と平和(三)』(トルストイ、工藤精一郎訳、新潮社、1972年)

 トルストイの長編も後半戦に入った。幼い頃に読んだはずなのに、残念ながら私の記憶は全く呼び起こされない。

 アンドレイ公爵は連隊を指揮していたので、連隊の規律や、兵たちの状態や、命令の受理伝達などに心を奪われていた。スモーレンスクの炎上と放棄はアンドレイ公爵にとって画期的な事件だった。敵に対する憎悪の新たな感情は彼に自分の悲しみを忘れさせた。彼は自分の連隊の運命にすっかり心をうちこみ、部下の将兵たちの安否と、彼らに愛情を注ぐことに心を砕いていた。(225頁)

 悲しさを乗り越えるためには、情熱を注げる他の対象を見つけ、そこへのコミットメントを持つことが必要だ。アンドレイ公爵の場合、それは敵への憎悪の感情であり、敵と対峙する味方への愛情の感情であった。憎悪と愛情を生み出す戦争という存在は、それが必要とされる理由が、国家単位だけではなく、個人の単位にもあるのだろう。そうであるからこそ、戦争は美しく描かれ、魅了されることになってしまうのである。

 明日の戦闘が彼のこれまで参加したすべての戦闘の中でもっとも恐ろしいものになるはずであることが、彼にはわかっていた、そして生れてはじめて、自分は死ぬかもしれぬという考えが、現世とは何のかかわりもなく、それが他の人々にどのような影響をあたえるかなどという考慮はいっさいなく、ただ自分自身に、自分の魂にかかわるものとして、まざまざと、ほとんどまちがいのないものとして、飾らぬ恐ろしい姿で、彼の脳裏にあらわれた。そしてこの心象の高みから見れば、これまで彼を苦しめ、彼の心を塗りつぶしていたものがすべて、ふいに冷たい白い光におおわれて、陰影も、遠近も、輪郭もないものになってしまった。(382頁)

 死を間近に意識することではじめて至れる認識。死生観は生命観に通ずるのだろう。こうした死生観によって、自分自身を苦しめてきた主体が自分自身が生み出したものであり、それを達観することができるのかもしれない。

 『でも、いまとなってはもう同じことではないか』とふっと彼は思った。『だが、あの世には何があるのだろう、そしてこの世には何があったか?どうしておれはこの生活と別れるのが惜しかったのか?この生活には、おれのわからなかったものが、いまもわかっていないものが、何かあった』(476頁)

 戦場で負った怪我によって死に瀕する中でアンドレイ公爵が至った心理状態。達観してもなお自分自身の生を諦められない自分自身に気付き、その存在が何なのか、彼は自問する。

 『あわれみ、兄弟たちや愛する者たちに対する愛、われわれを憎む者に対する愛、敵に対する愛ーーそうだ、これは地上に神が説いた愛だ。妹のマリヤに教えられたが、理解できなかったあの愛だ。これがわからなかったから、おれは生命が惜しかったのだ。これこそ、おれが生きていられたら、まだおれの中に残されていたはずなのだが、いまはもうおそい。おれにはそれがわかっている!』(481頁)

 自問自答を何度となく繰り返した結果、アンドレイ公爵はキリスト教の隣人愛に辿り着く。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記、19章、18節)


2013年11月9日土曜日

【第219回】『戦争と平和(二)』(トルストイ、工藤精一郎訳、新潮社、1972年)

 前回に引き続き『戦争と平和』。内面描写が印象的な一冊であった。

 ところで、おれがドーロホフを撃ったのは、自分が侮辱されたと思ったからだ。ルイ十六世が処刑されたのは、犯罪者と考えられたからだが、一年後に、彼を処刑した連中も殺された。これも何かの理由があったからだ。何が悪いのか?何がよいのか?何を愛し、何を憎まねばならぬのか?何のために生きるのか、そしておれはそもそも何なのか?生とは何か、死とは何か?全体をあやつっているのはどんな力なのか?』と彼は自分に問いかけた。しかしこれらの問題のどのひとつに対する解答もなかった。ひとつだけ非論理的な答えはあったが、それもぜんぜんこれらの問題に対するものではなかった。それは、『死ねばーーすべてが終りだ。死ねばすべてがわかるかーーあるいは問いかけることをやめるだろうさ』ということだった。だが、死ぬのも恐ろしかった。(130頁)

 莫大な資産を得たピエールは、その資産目当てで結婚した妻から受けた裏切り行為に苛まれる。苦しむ中で、善と悪、生きる目的、考える意味について自問自答する。デカルトの述べるようなコギト的世界観に至りながらも、考える主体たる自分自身を否定することもできないという人間の弱さを白状する。生きる意味を真剣に考える、思春期に私たちの多くが経験するであろう内面の苦しみが、鮮やかに描写される。

 一人きりになっても、ピエールはまだ苦笑をつづけていた。彼は二度ほど肩をすくめて、はずそうとするように、手を目かくしのところへもっていったが、思い直しておろした。目かくしをされていた五分ばかりのあいだが、彼には一時間ほどにも思われた。手がむくんで、膝ががくがくした。疲れが出たような気がした。彼はひどく複雑な、さまざまな感情に責められていた。これから起ることが、恐ろしくもあったが、なんとか恐怖心を見せたくないという思いのほうが、それよりも不安だった。何が起るのか、どんなことが彼のまえに展開されるのか、知りたい好奇心もあった。しかし何よりもうれしかったのは、ヨセフ・アレクセーエヴィチとの出会い以来たえず空想してきた、あの更生の道へ、善徳と活動の生活の道へ、ついに踏み出す瞬間が来たのだという思いだった。(148~149頁)

 宗教的経験とはこうしたものなのかもしれない。苦しい状況の中で宗教に光を見出す心情は私には分からないが、そうした状況下でピエールのような判断を下すということもあり得るのだろう。しかし、ピエールがその後も悶え、苦しむという事後の展開にもまた、現実世界に対する著者の描写が表れている。

 長い別れののちに会うと、いつもそういうものだが、話は長いこと落着かなかった。彼らは自分でも簡単には語りつくせないと承知しているようなさまざまなことを、短くたずねたり、答えたりしていた。そのうちにようやく、話は徐々にさっきまでは断片的に語られたにすぎなかった過去の生活や、未来の計画や、ピエールの旅行や、その取組んでいる仕事や、戦争などといった線に落着きはじめた。(204~205頁)

 ピエールとアンドレイ公爵とが、久しぶりに会った際の情景である。古くからの友人や懇意にしている知人と長い期間を経て会うとよく起こる収まりの悪さ・居心地の悪さを見事に描き出している。近しい間柄であればあるほど、自分の文脈を相手が分かってくれている、もしくは分かっていてほしいと思う。そうであればこそ、こうした落ち着きのなさが当初は起こるものなのだろう。

 「何が正しく、何が正しくないかなどということはーー人間の決められることじゃないさ。人間てやつはつねに迷ってきたし、これからだって迷いつづけるのさ、しかも正しいとか正しくないとか決めようとするときほど、ひどい迷いにおちこむものさ」(208頁) 「しかし、人それぞれの生き方があるさ。きみは自分のために生きて、そのために危うく自分の生活を滅ぼしかけたと言い、今度他人のために生きるようになって、はじめて幸福を知ったと言う。ところがぼくが経験したのは、まるで反対のことだ。ぼくは名誉のために生きてきた(だが、そもそも名誉とは何だ?これもまた他人に対する愛ではないか、他人のために何かしてやろう、そして他人の賞讃をえようという願望ではないか)。このようにぼくは他人のために生きてきた、そしてほとんどどころか、完全に、自分の生活を滅ぼしてしまったのさ。そして、自分一人のために生活するようになってからだよ、やっとすこしずつ落着きをとりもどしてきたのは」(210頁)

 先述した居心地の悪さには、お互いの見えない経験の相違による内面のすれ違いも表れている。何をもって正しいものと見做すのか。この命題に対するピエールとアンドレイ公爵との違いを明確にすることで、著者は読者に対して問いかけている。

 彼が泣きたい気持になった最大の理由は、ふいにまざまざと彼に意識された恐ろしい矛盾、彼の内部にあったある限りなく大きな漠然としたものと、彼自身がそうであり、彼女さえもそうである、あるせまい肉体的なものとのあいだにある矛盾であった。彼女がうたっているあいだ、この矛盾が彼を悩ましもし、喜ばせもしたのだった。(402頁)

 アンドレイ公爵が深い沈鬱から解放された瞬間の心理的描写である。沈鬱からの解放は、単純な喜びではなく、悩みというマイナスの感情をも伴うと著者はしている。単純にポジティヴにもなれないし、また単純にネガティヴな感情だけが私たちの心を占めるということもないものだ。

2013年11月4日月曜日

【第218回】『戦争と平和(一)』(トルストイ、工藤精一郎訳、新潮社、1972年)

 小説というものは、全体のストーリーに焦点を当てることもさることながら、断片において自分が感じ入ったものに焦点を当てることも趣き深いものである。全体の文脈と離れたところにおいて、なにか自分に引っかかる部分がある。こうした細かな部分の中に、自身の内奥にある全体像を把握する何かがあるのではないだろうか。

 どんなに美しい、純粋な友人関係にも、車輪がまわるためには油が必要なように、追従か賞賛が必要なものである。(69頁)

 本作品の中心を為す人物のうちの二人であると思われる、アンドレイとピエールとのやり取りをもとに、著者は友人関係という繊細な事象を扱っている。友人関係、とりわけ親しい友人関係というものは、自然の為すわざであるとともに、それぞれの努力の為せるわざでもある。農作物にとって土壌が大事であることと同じように、豊かな自然の営為と共に、人間が絶え間なくケアすることが必要なのであろう。

 アンドレイ公爵は、戦局の全般の動きに主たる関心をおいている、司令部に数すくない士官の一人だった。マックを見て、その敗北の詳報を知ると、彼はこの戦争の半分が失敗に帰したことをさとった、そしてロシア軍のおかれた状況のあらゆるむずかしさを理解し、ロシア軍を待ち受けているものと、その中で彼が果さなければならぬ役割を、まざまざと思い描いた。(中略)一週間後には、おそらく、ロシア軍とフランス軍の遭遇を自分の目で目撃し、自分もその戦闘に参加することになろうと思うと(中略)、彼は思わず胸のおどるような喜びをおぼえた。しかし彼はロシア軍のあらゆる勇敢さに優るかもしれぬボナパルトの天才に恐れを感じていた、だがそれと同時に自分の好きなこの英雄の屈辱を許すこともできなかった。(290頁)

 広い視野を持つが故に、近い将来を見通すことができ、そこでの厳しい局面をイメージできてしまう。これが幸福なことなのか、不幸せなことなのかは難しい。さらに、敵将ナポレオンの政治的理念や戦略的天才性への共感と尊敬を抱きながら、軍人として闘うことへの躍動感とを彼は併せ持つ。どちらが本当の自分ということではなく、アンビバレントな中で選択を下し続けることが生きることであるということを著者は伝えようとしているのであろうか。

 ピエールは、自分が晩餐会の中心になっていることを感じていた、そしてこの状態は彼にはうれしくもあったし、窮屈でもあった。彼は何かの仕事に深く打込んでいる人間のような状態にあった。彼は何もはっきりは見えなかったし、わからなかったし、聞えなかった。ときおり、ふいに、彼の心の中に断片的な考えや現実からの印象がひらめくだけだった。(487~488頁)

 莫大な遺産を受け継ぐことになったピエールは、自身が誰と結婚するかということで注目を浴びる。自分自身が注目を受け、話題の中心になることが好きであるのに、そうした現状と自身が結婚することに対して冷めた目で眺めることもしている。アンドレイの状況と同様にピエールの状況においても、人間の単純性ではなく、アンビバレントな中でいかに生きるか、という著者のテーマ設定が提示されているようだ。


2013年11月3日日曜日

【第217回】Edgar H. Schein, “Humble Inquiry”

What is ‘Humble Inquiry’? What is the difference between usual hearing and  ‘Humble Inquiry’. Dr. Schein defines it as below.

Humble Inquiry is the fine art of drawing someone out, of asking questions  to which you do not already know the answer, of building a relationship based on curiosity and interest in the other person. (No.93)

According to him, having attitude of Humble Inquiry is very important in any situations including business and private life, because work and life become more and more complex today. Doing Humble Inquiry brings us many advantages in these situation.

Ultimately the purpose of Humble Inquiry is to build relationships that lead to trust which, in turn, leads to better communication and collaboration. (No.337)

It is important for us to use Humble Inquiry to build good relationship and  trustfulness. Then, good relationship and trustfulness bring us better communication and collaboration.

These cases also illustrate that Humble Inquiry is not a checklist to follow or a set of prewritten questions -- it is behavior that comes out of respect, genuine curiosity, and the desire to improve the quality of the conversation by stimulating greater openness and the sharing of task-relevant information. (No.548)

Humble Inquiry is not a checklist but a behavior which comes from their own mind. When we do something based on some checklist, we tend to be just focused on actions without any consideration and reflection. It’s not the attitude of Humble Inquiry. If we are based on it, we take care of other person’s mind and ourselves.

The skills of Asking in general and Humble Inquiry in particular will be needed in three broad domains: 1) in your personal life, to enable you to deal with increasing cultural diversity in all aspects of work and social life; 2) in organizations, to identify needs for collaboration among interdependent work units and to facilitate such collaboration; and 3) in your role as leader or manager, to create the relationships and the climate that will promote the open communication needed for safe and effective task performance. (No. 1253)

In order to develop our attitude of Humble Inquiry, these lists above seem to be useful. These are not checklist to be focused on outer actions, but  guideline to be focused on inner feeling and mind.

2013年11月2日土曜日

【第216回】『孔子伝』(白川静、中央公論新社、1991年)

 本書は、三年半ほど前にある恩師から頂戴したものであり、通読するのはその際に読んで以来である。それまでは孔子や儒教というものとは縁のない生活を送り、歴史の一つであるとしか考えていなかった。しかし、変化が激しく、不安定な社会、という孔子が活躍した春秋時代の特徴は現代にもそのまま該当する。歴史や古典を学ぶということは翻って現代を眺める上でも有益である。遠回りのように思える過程から見える景色は格別だ。

 まず、孔子その人についての著者の論評を見てみよう。

 自己の理想像に対する否定態としての、堕落した姿を、孔子は陽虎のうちに認めていたのではないか。孔子はつねに周公を夢みることによって、理想態への希求を捨てなかった。それが孔子の救いであった。はじめての亡命以来、二十二年の間、孔子は一つの声と、一つの影の中でくらした。それは何れも、孔子自身が作り出したものである。 人は誰でもみな、そういう声を聞き、影をみながら生きる。それが何であるかを、はっきり自覚する人は少ない。その意味で、孔子やソクラテスのような人は、稀な人格であった。偉大な人格であった。そしてもしそのことに注意しなければ、この偉大な人格の生涯を貫くリズムを、把握することは困難であろう。(62頁)

 自分自身がなにを是としてなにを非とするかを自覚すること。次に、それぞれを具現化するイメージをはっきりと持つこと。肯定することと否定することとを比較すると、否定する力の方が時に強くなりがちだ。他国を否定することで、自国民としてのアイデンティティーを持とうとするナショナリズムという現象を想起すれば分かり易いだろう。こうした中で、いかに肯定する力を持つかが大事になる。孔子にとっては、善政としての誉れが高かった周公をイメージしながら理想態を希求できたことが、彼の考えを練り上げていくうえで大きかったのであろう。

 体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。そこに変革を求める。思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。またその行為者でなくてはならない。(119頁)

 理想態を希求するということはすなわち、現在の否定態との対立をも厭わないということである。変革を起すためには、その礎となる考え方を提示することが大事である。それとともに、単に頭で考えるだけではなく、それを伝道すること、さらには伝道するために日々の生活の中で実践し続けること。こうした地道な一つひとつの活動が大きな変革へと繋がるのである。

 次に、新しいものを創造する際の伝統の重要性について取りあげる。

 哲人は、新しい思想の宣布者ではない。むしろ伝統のもつ意味を追及し、発見し、そこから今このようにあることの根拠を問う。探求者であり、求道者であることをその本質とする。(13頁)

 いたずらに、新しいこと、革新的なこと、創造的なことばかりを求める人がいる。そうしたものが肯定的なものを生み出すことがあるのも事実であろうが、変えること、刷新すること、そのこと自体が目的になり、現実を見ていないことも多い。孔子のような、思想を生み出した人物が、伝統的な価値観や現実を見据えた上で、探求を行ったという著者の考察にいま一度留意してみたい。

 ではそもそも伝統とは何なのだろうか。

 人々の生きかたのあらゆる領域にはたらきながら、そのはたらきを通じて精神的定型ともいうべきものを形成し、発展させてゆくものが伝統であるとすれば、それはきわめて多元的・包摂的でありながら、しかも体系をもつものであることが要求される。その条件をみたしうるものが、伝統でありうるのである。そしてそれをはじめてなしとげたのが、孔子であった。(67~68頁)

 多元的・包摂的であると同時に体系を持つ、という多元性と一元性という一見すると相矛盾するものを成立させているものが伝統であると著者はしている。南北に空間的に広がる一方で、元号という時間的な統一体を用いているという現代の日本という国を考えれば、ここでの伝統についてイメージを持てるだろう。ともすると正しい歴史や一つの歴史観という体系ばかりに目が向きがちになるが、伝統が保有する多様性/ダイバーシティにも私たちは目を向けるべきだろう。伝統から学ぶということは、こうした相反する二つの態度を併せ持つことによって為されるのではないだろうか。

 儒はもと巫祝を意味する語であった。かれらは古い呪的な儀礼や、喪葬などのことに従う下層の人たちであった。孔子はおそらくその階層に生まれた人であろう。しかし無類の好学の人であった孔子は、そのような儀礼の本来の意味を求めて、古典を学んだ。(109~110頁)

 過去から学ぶという行為は、現在行われている事象に関して、その過去からの変遷を学ぶことである。孔子が行ったように、自身を取り巻く環境についてその本来的な意味を探求することが自然であり効果的なのであろう。隣の芝生は青く見えるものだが、私たちが学ぶべき教材は存外身の回りにあるものだ。

 伝統をもとに新しいものを創造するには一つの核となる考え方が必要であろう。儒の考え方の骨格を為すのは仁であると著者はする。第三の点として仁について見ていく。

 孔子が、従来その意味に用いられたことのない仁の字を、最高の徳の名としたのは、「仁は人なり」ともいわれるように、同音の関係によって、いわば全人間的なありかたを表現するにふさわしい語と考えたからであろう。そしてこれによって、伝統的なものと価値的なものとの、全体的な統一を成就しようとしたのであろう。(中略)仁は単に情緒的なものではない。「あはれ」というような感情でなく、きびしい実践によって獲得されるものである。しかもその実践は、行為の規範としての礼の伝統によるものでなければならない。(113頁)

 伝統を用いて、厳しい実践の繰り返しによって、新しい価値観としての儒として成り立たせること。論語の中にある温故知新を地でいくような考え方である。伝統をいかに現実に活かすかという取り組みは厳しいものである。その過程ではうまくいかないことの方が多いに違いない。しかし清濁を合わせ飲んだ結果として、現実的でかつ革新的な考え方が生まれるものなのだろう。

 儒教は、中国における古代的な意識形態のすべてを含んで、その上に成立した。伝統は過去のすべてを包み、しかも新しい歴史の可能性を生み出す場であるから、それはいわば多の統一の上になり立つ。(中略)そしてその統一の場として、仁を見出したのである。(中略)伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである。儒教はそののち二千数百年にわたって、この国の伝統を形成した。(115~116頁)

 仁によって統一された儒の考え方の中には、本質的な多様な過去の伝統が包含されている。ために、伝統の内側に運動の萌芽が含まれることになる。静と動とが同居することも伝統の一つの特徴であり、ゆたかな可能性の源となるのであろう。

 第四に批判に対する孔子の向き合い方について。

 批判とは、自他を含む全体のうちにあって、自己を区別することである。それは従って、他を媒介としながら、つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、みずからを批判し形成する行為に他ならない。思想はそのようにして形成される。(175頁)

 批判を行うことで自説の存在価値を明らかにする。そのためには、批判の対象物は世間に真っ当なものとして認知されている方が望ましい。したがって、孔子の儒教は批判の対象として晒されることが多かった。批判がなされ、その批判に対して再批判がなされる。こうした運動によって考え方が深まる。儒教は思想の媒介的な役割をも担ってきたし、現在でも担っている。

 それぞれの思想の根源にある究極のものを理解することは、それと同一化することとなるのではないか。それゆえに批判は、一般に、他者を媒介としながらみずからをあらわすということに終る。それは歴史的認識を目的とするいまの研究者にとってもいいうることである。(182頁)

 批判をすることにって、自分自身のかたちを明らかにする。他者との境界を打ち出すことによって、自分自身の輪郭を明らかにする。換言すれば、批判するという行為によって、批判者の力量や懐の深さが自ずと外に表れる。著者がわざわざ「いまの研究者」にも当てはまるということを付言している意味について私たちは考えるべきだろう。

 相似たものほど、最もきびしく区別されなければならない。そのために、その対立点は極端にまで強調される傾向がある。(179頁)

 すべての批判行為が許されるわけではないだろう。とりわけ、不必要なまでに対立点を強調するときには、いったん立ち止まって自分自身のあり方を考えるべきかもしれない。