上巻が前近代を扱っていたのに続いて、下巻では近代以降の世界の歴史が扱われている。最初に、近代と前近代とを分けるものとはいったい何なのか。
近代とそれ以前を分けるには、大概の歴史的指標よりは一五〇〇という年が便利である。これはまずヨーロッパ史についていえる。つまり地理上の大発見と、その後に速やかに続いておこった宗教改革は、中世ヨーロッパにとどめを刺し、とにもかくにも安定した新しいパターンの思想と行動を手に入れるための、一世紀半にわたる必死の努力が開始されたからである。この努力の結果として、一六四八年以後、ヨーロッパ文明の新しい均衡が、おぼろげながら形をなしはじめた。一五〇〇年という年は、世界史においてもまた、重要な転回点となっている。ヨーロッパ人による諸発見は、地球上の海を、彼らの通商や征服のための公道とした。このようにしてヨーロッパ人は、人間の住み得るあらゆる海岸地方において新しい文化的前線を作りあげたが、それは、過去何世紀にもわたってアジアの諸文明が、草原の遊牧民と対立しあった陸の境界線と肩を並べるほどの重要性をもち、やがてはそれをしのぐ意味をもつようになった。(35頁)
西欧近代とも称されるヨーロッパにおける文化的・技術的・情報的な近代化を考える上でも、地球規模における通商や地理的な意味合いでも一五〇〇年という年が一つの分水嶺となるようだ。ヨーロッパ発の近代化は、西欧が地球規模において優勢な地位を占める過程を推し進めるという一つの推進力になった点であり、それまでは世界の中心ではなかった状態からの過程に着目する必要があるだろう。
ルネサンスと宗教改革という、双子の、しかも競合し合う運動は、ヨーロッパの文化的遺産のふたつの異なった側面を強く表している。異教的な古代の知識と技法と優雅さを再生させようという理想を掲げて登場した人々は、ヨーロッパの過去のギリシャ=ローマ的構成要素を賛美したのに対して、聖書の線に沿って宗教改革を熱心に行おうとした信者たちは、西欧文明のユダヤ=キリスト教的な要素から主な霊感を得た。両陣営における少数のひたむきな主導者たちは、相手をまってく否定しようとした。しかしこれは異例であった。このふたつの運動の間には絶えず複雑な交流があったからである。最も偉大な宗教改革者のなかには、優れた手腕をもつ古典学者がおり、聖書の研究にも適応できるような、正しい異教のテキストを確立するために発達してきた技術を見出した。同様に、ルネサンスの芸術家と文人は、深く宗教と神学の問題に関心をもちつづけた。(66頁)
文化的な側面における改革を担う人々と、宗教的な側面における改革を担う人々とがともに対立的な態度を取っていたという点は興味深い。というのも、後半で著者が述べるように、現代の感覚ではそうした動きは連動するのが自然であると考えられるからである。いずれにしろ、両者は表面的な対立と深い面での共鳴を経て、西欧の近代化を推し進めたのである。
一五〇〇年と一六四八年の間の長期にわたって続いたヨーロッパの陣痛は、奇妙なことに、その時代のほとんどすべての偉大なる人々が望んだのとは反対の結果を生んだ。普遍的な真理を発見し、強制するのではなく、ヨーロッパの人々は、意見を異にするという点で意見を一致させることが可能だ、ということを発見した。知的な多元論が、ヨーロッパの土壌に、それ以前のいかなる時代と比べても強く根付いたのである。(中略)
芸術と文学も、同じように高まりゆく多元性を示した。(78頁)
近代化により西欧の優勢が進んだということは、西欧における一元的な世界観が拡がったということを意味しないという点に注目したい。西欧の内部における困難な対立関係と、その結果としての長期にわたる戦争という苦しみを経た結果、多元的な社会観が、知識・芸術・文化のそれぞれの領域で見出されることとなったのである。
こうした西欧における近代化の影響は、世界規模で影響を及ぼすこととなる。西欧から見て辺境にあたる、アメリカやロシア、そして日本にどのような影響を及ぼすこととなったのかをまとめてみよう。
ロシアと両アメリカ大陸の社会を、西欧文明の中心部をなす諸国のそれから区別する基本的な条件に、土地が比較的豊富であることと、労働力(あるいは少なくとも訓練された熟練労働力)が不足していたことがあげられる。このような状況では、いかなる場合でも二種類の反応がおこり得る。すなわち、文明社会をまとめあげ、社会の諸階層と専門家集団とのあいだに機能的な関係を作りあげるのは、こまかく組み合わさったいくつもの要素――技能、地位、雇用、敬意の型など――なのであるが、それらがすべて解消して、無政府主義的平等、および文化的な新原始主義が生まれるのである。(中略)
辺境社会でおこり得る状況としてはもうひとつ、主人と使用人という極端な分極化があげられる。外部から経済的、政治的、軍事的圧力がかかってくる場合、ときとして辺境の平等主義は相容れない複雑な社会制度が必要となることがあるからである。(154~155頁)
新しい政治形態やオリジナルな文化の創出という反応と、固定的な身分制度の創出という反応の二つが挙げられている。こうした二つの反応は時に激しい対立構造を持つこととなり、その最たる例はアメリカ合衆国における南北戦争であろう。
次に、西欧から見て極東の辺境に位置する日本への影響はどのようなものであったか。
ちょうどヨーロッパにおけるのと同じように、大砲や小銃が戦争における決定的な武器となったとき、軍備費が増大してその結果大領主しか軍備を調達して勝利をおさめることができなくなった。そこでおこったのが、急速な政治的統一である。最初のポルトガル船が日本に着いてから半世紀も経たないうちに、日本列島全体は、大将軍秀吉(中略)のもとに事実上統一された。(121頁)
全国の武将が覇権を競う姿で描かれた日本史を学ぶ私たちにとってパラダイムシフトを伴う歴史の見方が提示されている。つまり、西欧からもたらされた新しい武器の導入を伴い軍備費が増加したために政治的統一が求められた、という視点である。火縄銃を用いて長篠の戦いに勝つという織田信長の戦術眼はほんの小さな歴史の断片に過ぎず、最先端技術のコスト負担を低くするために統合が促されたというマクロな視点で歴史を眺めること。歴史をロマンとして見ることが否定されているのではないだろうが、技術や政治という現実的な観点で歴史を見ることは、歴史を学ぶということなのであろう。
一八六八年のクーデターによって幕府は倒れ、天皇制への復古がはたされた。だがまことに皮肉なことに、こうして天皇の名のもとに徳川幕府を転覆した人々は、いざ権力を握ったとたん、西欧の進出を食い止める唯一の方法は、その進んだ技術と政治の秘密を学ぶことだと考えたのである。少数の日本人はすでに、ペリー提督が一八五四年に日本を「開国」する前から、それに手をつけていた。そしていったん開国したあとは、ますます大勢の愛国的日本人たちが組織的に行動を開始し、西欧列強をこれほどまでに強力にした原因である技術と知識を習得しようとしたのである。西欧の侵入から国を守るために、彼らはこうして計画的に革命をおこしたのだった。(240頁)
「毒をもって毒を制す」ともいえるような日本人の立ち振る舞いが、抑制の効いた筆致でよく描き出されている。日本人は外国の方々からこのように見られているということでもあるのだろう。良くも悪くも、認識しておく必要があるだろう。
第一次世界大戦の勃発とともに、混乱はさらに増した。大戦中、日本はヨーロッパ列強が戦闘状態にあるのを利用して、中国における自国の利権拡大を画策した(二十一カ条の要求、一九一五年)。(中略)
このようにして、中国に特別な利権を手に入れようとする日本の努力は、列強の外交的介入によって食い止められたものの、中国の国内は暴動によって混乱状態に陥っていた。(中略)
一九三〇年代、日本が中国に対する侵略を再開したことによって、中国のかかえる問題はいっそう複雑なものとなった。(264~267頁)
一九〇〇年以降の中国における日本の政策に対する著者の記述である。一貫して、当時の日本政府の行動が中国への侵略という意味合いで論じられていることに着目するべきであろう。一九四五年に至るまでの一連の中国への日本軍の関与について、侵略戦争であったか否かが今でも論じられるが、西欧人の一人である著者の描き方を、私たちは意識する必要がある。
最後に、著者の考える歴史と、現代という時代について触れておこう。
自然の実相は、これまで天文学者や物理学者が信じていたように統一的で数学的に予見可能ではなく、その細部においては突発的で予言不可能なものだ、という物理化学の見方が有力になったのである。さらに、この新しい宇宙の歴史は、生物学者や社会学者がつねにとらえようと努力してきた、混乱してうつろいやすい世界と酷似している。人類史、生物進化、そして地球の地質的歴史などは、すべて宇宙全体の進化の新しい像と、ぴったり一致しはじめたのである。(398~399頁)
多様な学問分野における知見が、予測不可能性や変化を所与としたものの見方を提示するという方向性で統一されつつある、という指摘が興味深い。個々の異なるベクトルが、時間軸の中で収斂していく様は、時代という意志の存在を想起させられる。
人間の行為(または行為の抑制)が、人間相互や人間を取りかこむ自然界にどのような影響を与えるかは、完全には予見できない。これは過去においても同じだった。しかし、人間の計画的な行動によって、変化への道が広く開かれている未来には、すばらしい可能性と、それと同じくらい恐ろしい破滅がひそんでいる、と結論しなければならない。したがって、世界史は、いままでつねにそうであったように、未知なるものへの栄光ある、挫折多き冒険でありつづけるのである。(401頁)
歴史を学ぶということは未来を予見するためではない。予期できない状況の中において、未来を創り出そうとする意欲を育むことであり、挫折しても立ち直るための英知を涵養するためなのだろう。