2019年2月3日日曜日

【第927回】『変調「日本の古典」講義』(内田樹・安田登、祥伝社、2017年)


 身体との対話を大事にするお二人の対話が、身体に関する話にならないはずがない。頭で考えすぎる現代の私たちにとって、身体を起点にして対話される二人の碩学の対話は、どこか私たちの潜在的意識に語りかける内容が含まれているようにも思える。懐かしくも新しい不思議な感覚を覚えながら読み進めた。

 特に興味深く感じたのは、孔子が重要視した六芸に関する内田さんの指摘である。

 「射」は剣や槍を使う技術と大きな違いがあります。それは「的は向こうからは襲ってこない」ということです。ですから、弓の技術は「こう攻撃されたら、どう反応するか?」という反応の枠組みでは語られることがない。そうではなくて、自分の全身をモニターする。どこかに詰まりがないか、こわばりがないか、痛みがないか、緩みがないか、あるいは見落とされた空白がないか。それを全員の内外について点検する。その点検のためには、どれほど時間をかけても構わない。それが「射」という技術が要求するタスクの本質です。自分の身体を一種の対象と見立てて、それを丁寧に観察する。こう言ってよければ、「自分の身体という他者」を観察し、それを調整する技術です。(86頁)

 私たちは、スポーツの中に「道」を見出し、ビジネスの中にも「道」を読み取ろうとする傾向がある。その起源は六芸にあるのではないかとも思えてくる。


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