2019年2月2日土曜日

【第926回】『現代人の論語』(呉智英、文藝春秋社、2003年)


 本書は、論語を現代の視点で読み解くとどのように読めるかということに焦点を絞っている。古典は、時代が変わり、環境が変わっても読み継がれるものである。しかしながら、初学者にとっては、ある程度の解釈があったほうがハードルが低いのが実情だろう。著者は、そうした私たちにとって最適な入門書の一つに数えられるだろう。

 論語の冒頭である「学而時習之」を解説した第三講を引用してみる。

 多くの人は、「学んで、これを時々復習する」と訳す。正しくは「時々」ではなく、「時を選んで」「適当な時期に」である。(20頁)

 易経でも「時中」という概念を用いて、「時に中る」として適当な時を選ぶことを重んじる。これに通ずる部分がありそうだ。

 私たちは自分たちの学生時代の経験から「時に習う」と聞くと「時々復習する」と解釈してしまう。しかし孔子は、学ぶ上で適当な時期があり、そのタイミングを捉えて学ぶことの重要性を説いている。したがって、何かをただ漫然と学ぶのではなく、その文脈を考えることが重要なのではないか。

 よいか、「達」とは、質朴実直で正義を愛し、人の言葉を洞察し、また人の表情も見抜き、思慮深く、謙虚でもあり、そうであればこそ、公務にも必ず熟達し、私生活にも必ず手抜かりがない、これが「達」だ。ところが、「聞」は、上べは仁らしく装っていても実行がともなわず、しかも、それでいいと思って自らを疑おうともしない、そうしていれば見かけはいいから、公務に就いても聞こえはよく、私生活でも聞こえはいい、これが「聞」なのだ。(154頁)

 熟達について子張に問われた孔子は、他者からの評判がよくなるという意味合いの「聞」と対比して上のように述べたと著者は解釈している。

 私たちは人事評価に注意が向き、日頃はFacebookのいいね!に一喜一憂するなど、評価を気にしすぎるのかもしれない。そうした安易な他者目線に意識を向けるのではなく、じっくりと熟達することを目指すことが、翻って他者からの信頼に繋がるのではないだろうか。噛み締めたい一言である。

【第924回】『身体感覚で『論語』を読みなおす。』(安田登、新潮社、2018年)
【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【4回目】
【第340回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

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