2014年2月9日日曜日

【第249回】『西瓜糖の日々』(リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳、河出書房新社、1979年)

改めて思い知らされた、海外小説は難しい。日本の小説については、最近よく読むようになったからか、なんとなく自分に合った読み方というものを体得しつつある。しかし、海外小説となると要領が違うようで、どうも掴みづらい。本書が全体としてなにを言いたいのか私にはまだよく分からないが、個々の部分において、勝手に私が考えさせられたポイントについて述べていくこととしたい。

わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前を決める。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。(12頁)

この部分には、面食らいながらも非常に興味深いと感じた点である。正直に言えば、読むのをやめようかと思い始めた時にこの部分に出会い、読み続けようと思ったくらいである。字画を鑑みて名前を決めたり、親からもらった名前を改名したりする方も多いのだから、名前がその保有者の運気を左右するという考え方もあるのだろう。しかし、私には上記の部分のような、名前をいわば括弧に括り、多様な他者との多様な関係性を統合する主体としての<私>という考え方の方がしっくりとする。そう、この部分は社会学者・ジンメルの考え方(『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年))を彷彿とさせるのである。

ランタンが誰のものか、わたしは知っていた。ある少女のものだった。夜の散歩をしているかの女を、もう長年にわたって、わたしはいくども見かけてきたのだもの。かの女の姿を見かけると、いつもわたしの心はなごんだ。でも、後からついて行ってみたり、夜に姿を見かけることを誰かに話したりして、かの女が誰なのかつきとめようとしたことはない。奇妙ないいかただが、少女はわたしのものだったし、その姿を見ることでわたしの心は休まった。とても美しい人だと思ったが、髪の色はわからなかった。(125126頁)

なんとなくウマが合う、価値観が合う、ということはこうした関係性のことなのではないだろうか。すなわち、外見的なものに対して魅かれるということではなく、内面における共通性、それが顕在化した際の行動の共通性といった要素である。したがって、なんとなく合うということであるから、髪の色がわからないといったように、外的なものについての興味は後回しになる。ために、髪形を少し変えたのにパートナーに気付かれないことを女性は愛情の薄さと誤解することがよくあるが、見ているポイントにズレがあるために起こる誤解なのである。

しばらくじっとして、鏡のこと以外は何も考えないで立っていると、すべてが鏡の彫像に映し出されるのが見える。鏡に何かが映るといい、と期待してはいけない。ただ成行きに委せるのだよ。およそ一時間も経過すると、わたしの心はすっかり空っぽになった。鏡の彫像の中に何も見ることができない人々もいる。じぶんの姿さえ。(159頁)

振り返り(Reflection)とは反射(Reflect)から来た言葉である、とはよく言われる。ここでは鏡というアナロジーを用いながら、振り返りについて考えさせられる。特定のことを意識的に客観的に振り返ろうとするのではなく、時間をゆっくりと使いながらむしろ意識を自分から解放しながら振り返ること。忙しい日常ではなかなかできないような贅沢な振り返りであるからこそ、こうした振り返りの時間を意識的に作り出すことは重要なのかもしれない。

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