2014年2月23日日曜日

【第255回】『古寺巡礼』(和辻哲郎、岩波書店、1979年)

 奈良の寺を巡礼する。なんとも贅沢でゆたかな時間であろうか。その旅行記をしたためたエッセイが本書である。寺社仏閣について、何を、どのように観賞するのか、に焦点を当てて読んだところ、いくつか興味深い点があった。

 人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とかいうふうに截然と区別してしまうことは正しくない。それは具体的な一つの生活をバラバラにし、生きた全体としてつかむことを不可能にする。しかし一つの側面をその著しい特徴によって他と区別して観察するということは、それが全体の一側面であることを忘れないかぎり、依然として必要なことである。この意味では、宗教的生活と享楽の生活とは、時折り不可分に結合しているにかかわらず、なお注意深い区別を受けなくてはならぬ。(Kindle No.109)

 一つの統合された主体であるという全体性を十全に意識した上で、部分を観賞することで得られる気づきを、知見として活かすことが観賞の意義なのではないか。近代的理性主義は、ともすると前者を等閑にすることで人間が本来保有するゆたかな可能性を分断し、摩滅させてしまう。反対に、一個人の全体を観察しようとすると、主観的な印象論に堕してしまい、ゆたかな知見を見出す内省には至らない。著者が述べるように、全体的な統一感を前提としながら、個別的な部分を観察することが、その対象の持つ可能性を最大化する観賞という行為なのだろう。

 この心持ちは一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである。(Kindle No.453)

 京都から奈良へ向かう車窓から見える風景の描写である。ここで描写されている情景を美しいと思う著者と、その描写された情景を美しいと感じる私たちとの共感性。<日本人>というアイデンティティーをことさら強く持ちたいと思わない人間であるが、こうしたところに<日本人>の持つ感性があるようにも思える。こうした場所こそが桃源郷ではないかと著者はしており、なんとなく共感できるように思えるのは<日本人>だからなのであろうか。

 抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、ーーそれを嬰児のごとく新鮮な感動によって抑えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、ーーしかもそれを目でもって見得るということは、ーー彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しいこころで人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。(Kindle No. 756)

 なぜ仏像を創ったのか。宗教心を持たない身としては、日本史の授業で仏像のビジュアルを見ても、その部分がよくわからなかった。しかし、著者によれば、仏像が創られ、それを観賞できるようになることは世界観の変容をもたらしたとする。たしかに、今は仏像が「ある」世界に生きているので当たり前のように思えるだけであって、仏像が「ない」世界を考えれば、自然への畏怖と尊敬に基づく「天」への崇拝だけでは心もとないなにかがあるようにも思える。

 わたくしはあの時の経験を忘れない。今はこの画の毀損し剥落した個所によって妨げられることなしにこの画を観賞している。しかしこの毀損し剥落した個所が眼にうつらないのではない。それを見ながらも、芸術的統一の面に属しないものとして捨象しているのである。またそれと共に芸術的統一の面に属するものを追跡し見いだそうと努力している。輪郭の線は生にあふれた鉄線ではあるが、しかし両面の古色の内に没し去って、われわれの眼にはっきりとはうつらない。われわれは線に注意を集めて古色に抵抗する。体はしっかりと描かれた雄大なものであるが、色彩が十分残っていないために、ともすれば希薄な、空虚な感じを与える。われわれは衣に包まれた体から推測してそこに厚味のある色を補おうとする。これは芸術的統一の面がそれ自身に復元力を持つことを意味する。しかしそれは画面の毀損が回復されたということではない。この画の本来の統一に注意を集め、その復元力にまで迫って行く努力をしなければ、毀損の個所の方がかえって強く目につくであろう。従ってこの画を見る人が、画面の毀損のために十分この画に没入し得ないということはあり得るのである。(Kindle No. 2367)

 再び、芸術を観賞することについての記述である。芸術作品の、特に歴史的な作品については、毀損している部分を想像しながら観賞することが求められるという。こうした見る側の想像により、見る側と創る側との相互的な創造行為がその場において完結し、未来における更なる創造行為へと拓かれる。このように考えれば、私たちは芸術作品を自由にたのしみながら見ることで、リラックスしながら観賞をして良いのではないだろうか。


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