2014年2月15日土曜日

【第251回】『ワークショップと学び1 まなびを学ぶ』(苅宿俊文ら編著、東京大学出版会、2012年)

 あるコンテンツを教師が生徒に教え、生徒はそれを何度も復習しながら暗記して、それを試験において再現できるようにする。こうした義務教育課程および(残念ながら)多くの高等教育でも為される方式の学習行動は、一つの学びのスタイルにすぎない。しかし、このスタイルがあまりに敷衍し、私たちが過剰適応してきてしまったために、異なる学びのスタイルを受け容れることは思いのほか難しいことが多いようだ。

 こうした一方向的な、学習転移依を過度に重視する従来型の学びへのアンチテーゼの流れとして、ワークショップが市民権を得つつある。こうした流れは望ましいものではあるが、「ワークショップ」と冠した学習スタイルを用いながらも、その狙いが従来の学びのそれと変わらないものが多いことも事実だ。著者たちはこうした事態に注意を向け、「まなびを学ぶ」というメタ学習を明らかにし、その効用を丹念に述べている。

 わたしたちがここで「まなび学」とよぶことは、そういう「学んでしまってきていること」を振り返り、それを「まなびほぐす(アンラーンする)」ことによって、あらためて、ほんとうの「まなび」とはどういうものなのかについて考え直そうという営みをさしている。(ⅱ頁)

 著者たちは、メタ学習のポイントをアンラーニングおよび「まなびほぐし」という言葉で提示している。では「まなびほぐし」とはどのような学習スタイルなのか。

 「まなびほぐし」の学習論は、いったん編み上げられた知が解体されつつ、不安定に揺らぎながら何か新しいものへと変化していく過程そのものに焦点をあわせる。揺らぐ現在から、少しずつ未来の姿が浮かび上がってくるプロセスをまなびとして捉えようとするのである。どこかで誰かによってあらかじめ定められた未来に向かうのではなく、まだ姿がよく見えない未来の時間を「いまここ」で生成する。これが「まなびほぐし」の学習論におけるまなびの基本的な姿である。(24頁)

 従来の学習スタイルとの対比軸は、結果志向/過程志向、安定/変化という二点である。まず、結果ありきで逆工学的に最適解を導き出す従来のスタイルに対して、まなびほぐしでは学びの過程そのものに焦点が当たる。ために、従来型は予定調和的で普遍的なハウツーに基づく学びになるのに対して、まなびほぐしにおいては過程における変化を受け容れ、当初の仮説から外れた結果へと至ることも受容する。むしろ、こうした環境変化や自分自身の変容を是として、その変化自体をたのしみながら、「いまここ」で生成される学びを重視するのである。

 人が新しい「型」を習得していくとき、生田のいう「解釈の努力」、あるいは宮台のいう「感染動機」から、一方ではこれまでとは異なる「頭のはたらかせ方」で、もうれつに「思考」を活動させることが生じると同時に、他方では、これまで習慣的に行っていた「頭のはたらかせ方」を「停止」する、いわば「思考停止」もまた同時に伴っている。むしろ、そのような「思考停止」によってこそ、多くの暗黙知(身体技法)を身に付け、その文化のハビトスを身に付け、「考えないでもからだが動く」わざを身に付けているのである。 つまり、「思考発現」と「思考停止」は表裏一体であり、「一方だけ」ということはあり得ない。私たちは、多くのことを「まなぶ」とき、同時に多くの「思考停止」も身に付けているのである。(61頁)

 過程に集中して学びを生み出すプロセスは、従来型の学びを停止させることと表裏一体である、という点は興味深い。私たちはともすると、無自覚のうちに従来型の学びのシステムを発動させてしまう。たとえば、「学び」の場には教える側と教わる側とが存在し、教える側は予め想定している解答を持っており、教わる側はそれを最終的には理解すればよい、と考えがちだ。こうした思考自体を停止することが、まなびほぐし型の学びを発動させるという指摘を私たちは十全に意識するべきだろう。さらに、こうしたまなびほぐしにおいては、従来の学習スタイルが軽視してきた身体性や他者との相互作用を意識することが肝要である。ために、従来型のように黙々と暗記をする自分だけに閉じた学びではなく、他者とのやり取りや社会との結節点を意識するといった拡張された学びを焦点に入れるべきであろう。

 生田は、現代社会での人々は生活と仕事を分離して、会社に行けば「仕事人間」、自宅に戻れば、「過程人間」になってしまったり、子どもたちは「勉強」と「遊び」を完全に分離させて、「適当に勉強」し「適当に遊ぶ」習性を身に付けてしまっているといったようなことをさして「型なし社会」と名付けているが(中略)、ここはやはり、そういう「型なし」という「型」を身に付けてしまっていると言うべきであろう。(63~64頁)

 従来型の学習スタイルの支配するパラダイムにおいては、最適な学び、最適な生活、といった目的合理的な頭の働きが求められる。しかし、子どもの頃を思い起こしてほしい。たとえば野球を友人とたのしみながら、好きな選手の名前から漢字に親しみ、打率の変動の不思議さから確率に興味をおぼえる、といった具合に「遊び」と「学び」は一体不可分のものであっただろう。なんでも分類して、限定された状況における目標からの逆算で過程を合理的にこなすのではなく、過程じたいをたのしむことで学びを広げ、深めること。こうした「しなやかな学び」においては、従来の学習をも一つの学習スタイルとして取り入れながら、学びの一つの引き出しとして活用するのである。



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