2014年2月17日月曜日

【第253回】『日本のこころ<天の巻>』(鈴木治雄ら、講談社、2000年)

 偉大な先人から学び、現代を生きる糧にすること。温故知新を地でいく本書では、昭和電工名誉会長(当時)の鈴木治雄さんを代表に据えながら、経済界・政界・文化界の各執筆陣が先人について思いの丈を記している。ここでは、とりわけ興味深く感じた二人について、以下から述べていきたい。

 まずは、勅使河原宏さんによる千利休論について。

 戦国時代と言われるが、日本国内だけが激動していたのではない。ヨーロッパもアジアも激しく動いていた。信長や秀吉はその動きの中で新しい秩序と価値観を作ろうとしており、その中枢に利休という人はいた。金銀や物質の大量移動に直接・間接にかかわっていたから彼はその価値を嫌と言うほど知っていた。だから茶の湯の場ではその価値の思い切った転換ができたのだ。捨て去るということではない。価値の大転換をはかったということだ。(90頁)

 利休の茶の湯がなぜ信長や秀吉といった武将に受け容れられたのかという背景について端的に述べられている。物質的な世界の影響力を十分すぎるほどに知っているからこそ、物質とかけ離れた世界に重きを置き、精神的なバランスを取るということが求められたのであろう。その際に、そうしたバランスを取る上での価値の大転換を利休が担うこととなったのである。ここには、単なる文化人ということではなく、稀代の政治家としての利休の側面も垣間見える。

 実際に待庵の躙り口から茶室に入ってみて、私は利休の平等の思想とは別に、この低い入り口が思いがけない効果をあげているのに気づいたのである。躙り口をくぐるときは、沓脱ぎの意志の上にかがんで戸を開け、茶室の中をのぞく。ほの暗い茶室の正面に床の間があり、左手に炉が切られ、釜がのっている。身をかがめて中に入るため、茶室の内部全体を低い位置から見ることになる。部屋の暗さに目がしだいになれてくるのだが、気がついたときには、自分が茶室の雰囲気に包まれており、いけられた花なども、明るいところで見るのとはまったく違う美しさで見えてくるのだ。立ってずかずかと入っていくのではなく、低い姿勢のままにじり入ることによって、茶室としつらえの全体を低い位置から見わたし、用意された視覚の演出を最初に受けとめることができるわけだ。私は二重の意味で利休のたくらみに感服させられたのである。(92~93頁)

 価値観の大転換は、茶室における平等的な関係性の創出のみに留まらないと述べられている。通常とは異なる視覚を用いることにより、新しい世界観が浮かび上がってくるとでも言えるだろう。すなわち、日常よりも低いところから眺め、暗い所で目を凝らして部屋の状況を把握する、という行為自体が非日常経験を誘引するのである。

 利休が今に示しているのは、文化の力のすごさということである。彼は、権力が好む、あからさまに目に見えるものに依拠した価値観ではなく、精神的な価値観をモノに託して時代の前面に出した。それは多様性をもって広がっていった。それは小さな空間で見事に開花した。 利休の草庵では藁や土や竹や木や紙など、どこにでもあるものが最も美しく見えた。そのように利休が開示してみせたものに、皆が共感せざるを得なかった。モノから離れていく強い意思がモノの本当の価値の在処を示した。そこに神秘さえ感じさせる利休の精神の力がある。四百年前の前衛の精神は、今も力強く私たちの心を打ってくるのだ。(95~96頁)

 モノではなく精神的なものへの価値観のシフトは、単一性から多様性へのシフトを促したという指摘は興味深い。多様性の背景には精神性を重視する文化が根ざしているのである。こうした深い文化理解と人間理解とをもとに時代精神を理解するということは、現代の私たちにも求められることであろう。

 「茶の湯はご政道なり」という言葉さえあった。茶の湯に武将としてのありかたの本質がある、というのである。戦場ではどんなに勇猛果敢な武将でも、またどれほどの領地をもった大名でも、茶室に座れば全員同等であり、しかも茶会を主催する場合などは、前回と同じ演出しかできない者は、工夫のないやつだといって軽蔑されたという。知識もセンスもあってはじめて、一流の武将として認められたというのだ。(90~91頁)

 茶の湯を通じて、文武両道が求められたという指摘は大変興味深い。現代においても、ともすると物質のような生きる上で必要不可欠なものに注目されがちであり、他の要素は排除される傾向がある。しかし、戦国時代という武や物質のみがものをいう世界においてこそ、茶の湯という教養が武将に求められたのである。 ビジョンを描き、戦術を浸透させ、他者を束ね、他者とともに協働する、というリーダーには、教養という人間理解の深みも求められるのであろう。

 次に、桜井洋子さんの述べる井深大さんの仕事論について扱う。

 私は『プロジェクト』という言葉が非常に好きなんです。仕事というのは、プロジェクトでやるのが一番いいんです。プロジェクトというのは、はっきりした題名、目的が与えられていて、その目的達成のためにチームを作ってやるわけです。目的がはっきりしている、はっきりさせるということは、みんなの気持ちをモチベイトさせるのに重要なことなんですよね。(338頁)

 組織で仕事を行うのではなく、プロジェクトをもとにして仕事を行うことの効用として、モティベーションおよびチームワークということを指摘している。新しい製品を世の中に生み出し、世界をよりよくするとことを目的としたソニーという偉大なベンチャーを立ち上げた方の含蓄のある言葉である。最も重要な点として、技術や利潤ではなく、働く社員のモチベーションやチームといった点を重視していることは極めて興味深い。

 好きだということも必要だけど、好きになるということも大切ですね。仕事を任せようと考えている人には、その仕事を好きになってもらわなければならない。そのためには相手が素人だと思っても、相当乱暴な意見であっても、尊重してなるべく思うとおりの仕事を、まずさせることです。その上で、目的のために良いとか悪いとかの評価をしていけば、みんなの行きというのは上がってくるんだと思いますね。だから、上に立つ人というのは、やはりプロジェクトのマネージャーになったつもりでね、人を引っ張っていかなけりゃいけないし、やはり”泥”は一番トップの人がかぶらなきゃならない。(339頁)

 最初から好きなことを仕事にするということができれば素晴らしいが、必ずしもそうしたケースは多くない。そうではなく、いかに好きになるように導くか、という視点が求められる。その際には、相手を尊重し、相手の好きなようにやらせ、最終的な失敗の責任を組織のトップが取る、という度量が求められる。好きになるというプロセスを重視したこのような取り組みは示唆に富んだ考え方であろう。

 やっぱり、一番アドバイスしたいのは、技術とは限りませんけどね、仕事に対して熱情を持つ、仕事が面白くてしようがないというふうに、自分を変えていく。そうすると、非常に仕事というものの意味が違ってくると思うんですよね。いやいやながらやっていたら、これは、良い仕事なんて絶対できないけど、少し無茶苦茶をしてでも、この仕事を愛してやろう、この仕事をしでかしてやろうという気持ちを一人ひとりに与えるということ、これが非常に大切なんだと、私は思います(340頁)

 先ほどの点がリーダーからメンバーへの支援であるのに対して、その前提としたメンバーがどのように取り組むべきか、という点である。この両者は表裏一体のものであり、とちらかが欠けてもうまく機能しないものだろう。

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