英雄崇拝位不潔なものはない。ぼくは崇拝の対象になっている漱石に我慢がならなかったのだ。人間を崇拝することほど、傲慢な行為はないし、他人に崇拝されるほど屈辱的なこともない。崇拝もせず、軽蔑もせず、只平凡な生活人であった漱石の肖像を描くことが、ぼくには作家に対する最高の礼儀だと思われる。偶像は死んでいるが、こうしてひとたび人間の共感に捉えられた精神の動きは、常に生きているからである。(189頁)
「初版へのあとがき」に記された部分に、著者の漱石への想いが端的に現れている。私たちはときに、尊敬を抱く相手に対して、崇拝に近い感覚までおぼえてしまう。著者は、そうした態度は相手に対してむしろ傲慢な行為であり、屈辱的な行為であると断言する。こうした想いを持っているからこそ、本書における漱石に対する批評の鋭さに、読み応えがあるのであろう。
彼の前にはどのように生きたらよいか、という問題が絶えず掲げられている。そして、これは彼の眼には近代日本の病弊に対して如何なる解答を見出さねばならぬか、という焦燥として映じている。そういう漱石にとって、あの厖大な著作が果してどれ程の意味を持っていたのであろうか。(中略)仮りに百年の後に漱石が残るとしても、彼は「草枕」や「坊つちやん」の作家として残るのではさらにない。彼は、作家でもあった文明批評家として残るのであって、偽物でない文学を志す日本人はこのことを肝に銘じておかなければならない。(50~51頁)
まず著者は漱石を、作家ではなく一人の生活者として当時の時代・文明に思考を巡らせた人物であると指摘する。漱石=明治の文豪という教科書にあるようなステレオタイプな定義として捉えようとしない、著者の鋭い指摘が心地よい。
倫理の問題は、最も根本的な形に還元すれば、他人をどうするかということに尽きる。ここで提出されるのが生活の問題であることはいうまでもない。ぼくらの日常生活等というものは、他人に対して如何に行動し、考えるかということの繰り返しであるといってよいので、これはそのまま漱石の長編小説に於て、一貫して発展されている主題であった。(中略)小説作者漱石は、彼には徹頭徹尾俗悪と思われ、かくもしばしば嫌悪の念をもよおさせた日常生活の場から一歩も離れ得ぬ生活者として仕事を続ける。生活者としての自己を放棄することは彼にはそのまま作家生活の終結を意味する。そしてこのように生活者である自己と、作家である自己を見事に一致させ得た所にこの作家の真の独創があったといえるのだ。(106頁)
生活者であるということは、日常の具体的な事象に拘泥して抽象的な思考や自己を超えた社会に対して意識が及ばない、ということを必ずしも意味しない。漱石の場合、自己自身の生き死にに対する生活者としての強い興味関心を抱きながら、同時に、作家としてのアイデンティティを有していたのであろう。こうした、相矛盾する二つのアイデンティティを統合させたところに漱石の「漱石」たる所以があるのではないか。
夏目漱石は、最初から生及び人間を嫌悪すべく生れついたような人間であった。しかしあれまでにその精神の奥底で希求しつづけた「死」に際して苦痛を訴えた彼は、又同時に熾烈な意欲に燃えた生活人であることを、期せずして告白したのである。(188頁)
晩年の漱石と言えば則天去私である。しかし、上記引用箇所で著者は、臨終の間際に「苦しい、苦しい」と漱石が述べた点を指摘する。則天去私に至った偶像として崇拝するのではなく、あくまでも生活者と作家とを統合した人物として漱石を描き出す著者の凄みを感じる。
『悩む力』(姜尚中、集英社、2008年)
『三四郎』(夏目漱石、青空文庫、1908年)
『それから』(夏目漱石、青空文庫、1909年)
『門』(夏目漱石、青空文庫、1911年)
『彼岸過迄』(夏目漱石、青空文庫、1912年)
『行人』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
『こころ』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
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