アーレントについて網羅的に記された本書。とりわけ興味深いと感じたアーレントの労働観に迫る第5章に焦点を当ててまとめてみたい。
マルクスはヘーゲルから継承した自己対象化論を深化させ、対象的世界を加工し、新しいものを生み出していく、目的ー手段の中に位置付けられる合目的的行為として労働をとらえ、同時に人間の自己表現、自己実現の行為という意味付けを与えている。そして労働こそが人間の基本的存在様式、人間の本質とされる。そこから労働は人間にとって積極的、肯定的な意味を持ち、人間にとって有意義なものという労働賛美の考えが生じ、それゆえに自己対象化となりえない労働は、疎外された活動として否定されるべきであるという考えを導きだす。(138頁)
著者は、アーレントの労働観を形づくるために、その対比としてマルクスの労働観を取りあげている。労働に意味を見出すマルクスの考え方に対し、アーレントは異なった捉え方をする。
アーレントによれば「労働」とは、(中略)生命の必然に拘束された際限のない労苦である。この点でアーレントはマルクスが「労働」と「仕事」を混同していると批判する。(139頁)
アーレントに言わせれば、労働は、仕事や活動と切り分けて考えるべきもののようだ。このような考え方に立った上で、マルクスは労働と仕事とを混同して捉えていると批判を加える。では、アーレントにとって、労働とはどのような意味を持つのであろうか。
「労働」とは、人間の「活動力」(activity)の中で最も価値の低いものであったと彼女は言う。(143頁)
このように断言した上で、なぜ最も価値の低い活動力として労働を定義したのか、その理由をアーレントは六つ述べている。
(1)「労働」とは、生命の必然に拘束され、無限に同じ事を繰り返す行為だからである。(144頁)
(2)「労働」という行為が苦痛に満ちた骨折り仕事であり、人々の嫌悪の対象になっていた(145頁)
(3)「労働」の持つ「無世界性」である(145頁)
(4)「労働」は、他者の存在を必要としない。(145頁)
(5)「労働」は、私的領域に閉じ込められている。(146頁)
こうした労働の特徴を述べた上で、対比的に仕事について以下のように定義する。
「労働」においては苦痛の多い体力を消耗するだけの行為が、「仕事」においては自己確証と満足を与えてくれるものとなる。同時に「仕事」は目的と手段の系列の中で行われるものであり、その生産物の特徴は、「永続性」(permanence)と「耐久性」(durability)にある。つまり、「労働」が「目的のない規則性」に従属しており、必然の過程であるのに対し、「仕事」は「独立した実体として世界にとどまりうるほどの」耐久性を備えたものをつくり出し、死すべき運命をもった人間に、その死を超えた、不死の世界をつくり出し、自らが生きた痕跡を世界に残すものである。そしてまた、「労働」が私的領域に閉じ込められていたのとは違って、「仕事」には公的世界を建設する可能性が開かれている。(146~147頁)
こうした仕事という概念の開放性をさらに推し進めたものを「活動」としてアーレントは定義づける。
「活動」(action)は、自然や事物に孤立的に対峙してなされるものではなく、複数の人々との関係性において成り立つ自発的行為の様式である。それは常に集合的行為であり、他者の存在を絶対の条件としており、必ず「言論」を伴う。(149~150頁)
こうした概念定義を踏まえた上で、近代社会において、労働が人々の関心を得て、それによって人々の生活に与える影響について以下のように述べる。
複数性を許容し、それを基盤とする「言論」と「活動」の空間であるはずの「公的」領域が、「労働」という生命の必然性に制約された画一的行動様式を基軸とする「社会的」領域によって浸食されていくのである。そしてこの「社会」の勃興によって、かつては家という私的領域に閉ざされていた経済的諸問題が全共同体の関心事になる。ここに「労働」が至上の価値を与えられる根拠がある。この中では、目的合理性、道具的合理性が優位性を持ち、「活動」を通じてつくり上げていく人々の共通世界が、没落を余儀なくされるのである。(152~153頁)
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