2015年4月18日土曜日

【第432回】『人生の目的』(五木寛之、幻冬舎、2000年)

 私たちの自由意志や、努力や、希望など、何ほどのこともないのだ。人は思うままにならぬ世の中に生まれ、「思うままにならない」人生を黙って耐えて生きるのである。(64頁)

 自由という概念は重要だと思うし、大事にしなければならないものでもある。しかし、私たちは、自由を大事にしすぎるあまり、自由に対して過大な期待を持ちすぎているのではないか。自由では<ない>世の中をいかに生きるか、に焦点を当てた方が、時に訪れる自由のありがたみを味わうことができるのかもしれない。

 いずれにしても<絆>は、個人の自由を束縛する側面をもっている。世の中に、いいことばかりはないのだ。心強さ、うれしさがあれば、その裏側に反対のものが一枚仕立ての布地のように重なりあっている。(104頁)

 通常、絆という概念は肯定的な意味合いを以て捉えられるものである。苦しいとき、辛い時に、他者との繋がりとしての絆があれば乗り切れる、といった具合である。たしかに、絆にはそうした人にエネルギーを与える側面もあるだろう。しかし、そのエネルギーは、一人ひとりの自由を束縛することにも繋がる。どのような概念であっても、全面的にポジティヴということはないし、他方でネガティヴということもない。ある概念を考える際には、多様な側面から捉えたいものだ。

 「心の貧しい人々は、幸いである」と聖書(マタイによる福音書)のなかでは語られるが、これは法然、親鸞が語った「悪人正機」の考えかたとほとんど重なっている。ここでいう「心の貧しき者」「悪人」とは、この世でより多くの汗と涙を流しながら生きる人間たちのことだ。さまざまな重荷を背負いつつ、よろめきながら歩く人びとのこと、と素直に考えたい。(141~142頁)

 マタイによる福音書と悪人正機における悪に対する考え方が類似しているという著者の指摘は非常に興味深い。悪人正機という字の印象から、悪を為すことが肯定されていると誤解されることも多いが、一所懸命に生きているのに貧しい状態であることを指しているのである。

 悪は私たちすべての人間のひとりひとりに宿っているはずだ。善人と悪人、天使と悪魔、というように、はっきりと二つに分けないのが他力思想の土台である。私たちはすべてそのような悪を抱いた存在である。親鸞はそれを<罪業深重のわれら>と呼んだ。(162頁)

 悪とは誰もが持つものであり、悪人のみが悪を為すということではなく、私たち全てが悪を抱いた存在であると著者は断言する。そしてこうした考え方が、他力という概念の土台となる。

 自信を失い、とことん無力感におしひしがれた人間が、もし他力の光を感じることができたならば、ひょっとして自信とは別の、人間らしい姿勢が生まれてくるのではないかと空想する。他力を信じる、<他信>とでもいうような心の状態がありうるのではないか。(163~164頁)

 自分で自分を信じるということも大事である。しかし、他力を信じる心の状態を持つことができたら、より豊かな人生を歩めるのではないか。私にはまだまだ遠い心の状態のように思えるが、辿り着きたい理想の境地の一つである。

 最後に「あとがきにかえて」の箇所で著者は本書のタイトルにもなっている「人生の目的」について触れている。この部分を引用して終えたい。

 人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかただが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。
 そのためには、生きなければならない。生きつづけていてこそ、目的も明らかになるのである。「われあり ゆえにわれ求む」というのが私の立場だ。(325頁)


0 件のコメント:

コメントを投稿