2015年6月27日土曜日

【第456回】『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹、文藝春秋、2006年)

 日本人とユダヤ人とは似ていると言われることがある。しかし、両者には大きな違いが存在していることを示した上で、本書ではユダヤに関して焦点を当てて論じられている。

 ユダヤ人がユダヤ人であるのは、彼を「ユダヤ人である」とみなす人がいるからであるという命題は、ユダヤ人とはどういうものであるかについて事実認知的な条件を列挙しているのではない。ユダヤ人はその存在を望む人によって遂行的に創造されるであろうと言っているのである。(中略)
 ユダヤ人は国民ではない。ユダヤ人は人種ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒のことでもない。ユダヤ人を統合しているはずの「ユダヤ的本質」を実定的なことばで確定しようとしたすべての試みが放棄されたあと、ユダヤ人の定義はもうこれしか残されなかったのである。(39~40頁)

 日本は国民国家としてイメージできるのに対して、ユダヤは国民国家として捉えることができない。この前提に立った上で、ユダヤ人やユダヤ文化といった概念を捉えて、日本人や日本を考えると興味深いことが見えてくる。

 日本国と日本国民の関係を「モデル」にして、社会集団統合を構想すれば、この「非人情」こそが常態なのである。それは、「国民」というのは、原理的には、地理的に集住し、単一の政治単位に帰属し、同一言語を用い、伝統的文化を共有する成員のことだと私たちが信じているからである。だから、そのうちのどれか一つでも条件が欠ければ、国民的連帯感が損なわれるのは当然のことだと私たちは考える。外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人、そのようなものを私たちは「日本のフルメンバー」にカウントする習慣を持たない。それは私たちにとっての「自明」である。(14~15頁)


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