年が明けて間もない頃、珍しく神谷さんから渋谷に呼び出された。渋谷駅前は幾つかの巨大スクリーンから流れる音が激突しては混合し、それに押し潰されないよう道を行く一人一人が引き連れている音もまた巨大なため、街全体が大声で叫んでいるように感じられた。人々は年末と同じ肉体のまま新年の表情で歩いていて、おざなりに黒い服を着た人が多かったが、時折、鮮やか過ぎる服を纏い一人で笑っている若者などもいて、むしろ、こういう人物の方が僕を落ち着かせた。神谷さんはハチ公前で煙草を吸っていた。吉祥寺で見る神谷さんには多少慣れてもきたが、渋谷の雑踏を背景に見る神谷さんは、やはり空間から圧倒的に浮いていた。神谷さんが服装に無頓着で現代的ではないことも、その要因の一つなのかもしれなかった。(44頁)
風景と内面との描写が美しい。 2010年の「キングオブコント」を観て、ピースの作品の世界観や創り込みに魅了された身としては、そのボケを担当する著者による世界観を構成する内面を垣間みるような感覚で本書を読み進めた。
主人公の徳永と、彼が師事する神谷との関係性が主旋律を為して、物語が展開されていく。まず、神谷が徳永に述べる漫才論が興味深い。
「つまりな、欲望に対してまっすぐに全力で生きなあかんねん。漫才師とはこうあるべきやと語る者は永遠に漫才師にはなられへん。長い時間をかけて漫才師に近づいて行く作業をしているだけであって、本物の漫才師にはなられへん。憧れてるだけやな。本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」(16頁)
著者による「漫才師」論とも読めるだろう。しかし私は、この「漫才師」をあらゆるプロフェッショナルに置き換えて読んでみたい。そうすることによって、自分たちの職務や取り組んでいることに対して、示唆に富んだ表現のように感じられるのではないだろうか。
人を傷つける行為ってな、一瞬は溜飲が下がるねん。でも、一瞬だけやねん。そこに安住している間は、自分の状況はいいように変化することはないやん。他を落とすことによって、今の自分で安心するという、やり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けてると思うねん。可哀想やと思わへん?あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。薬物中毒と一緒やな。薬物は絶対にやったらあかんけど、中毒になった奴がいたら、誰かが手伝ってやめさせたらな。だから、ちゃんと言うたらなあかんねん。一番簡単で楽な方法選んでもうてるでって。でも、時間の無駄やでって。ちょっと寄り道することはあっても、すぐに抜け出さないと、その先はないって。面白くないからやめろって(96~97頁)
ネットでの批判が気にならないかという徳永からの問いに対する神谷の回答の部分である。「ゆっくりな自殺」という表現が印象的である。単なる成長論に留めることをせず、匿名での批評家が自縄自縛に陥る様を描き出し、かつ著者独自の優しさによって淡々と表現されている。
師匠である神谷からの説諭が前半には多い一方で、クライマックスに近づくにつれて、徳永の精神的自律を表すような場面が増えてくる。
僕は、結局、世間というものを剥がせなかった。本当の地獄というのは、孤独の中ではなく、世間の中にこそある。神谷さんは、それを知らないのだ。僕の眼に世間が映る限り、そこから逃げるわけにはいかない。自分の理想を崩さず、世間の観念とも闘う。(115頁)
孤独という環境においては、自分自身が世界であり、他の環境からのフィードバックがないために、理想を追い求めることができる。笑いにおける理想もそうであろう。しかし、理想を持ちながら、求めずとも多種多様なフィードバックが訪れる世間との結節点にこそ、理想との矛盾は生じる。理想を捨てず、かつ世間とも向き合うことが、地獄の苦しみを与える環境なのであり、私たちはそうした世界に生きているのである。
僕たちが出演する最後の事務所ライブには噂を耳にして、普段よりも多くのお客さんが駆けつけてくれた。誰かには届いていたのだ。少なくとも誰かにとって、僕達は漫才師だったのだ。(122頁)
地獄での悪戦苦闘であっても、自分たちの理想が誰かに届いているということに気づく瞬間があるものだ。ここでは、解散ライブという一つの終局点での気づきとして描かれているが、日常においても理想と世間との矛盾の中で、何かが他者に届くことに喜びを感じることはあるだろう。そうしたささやかな手応えこそが、私たちが理想を持ちながら世間で生きる礎となるのではないか。
必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。(130頁)
解散ライブで納得のいくお笑いの一つのかたちを示した徳永が至る心境である。本作では、冒頭と最後に印象的な花火のシーンがあるのだが、タイトルは「火花」だ。なぜ「花火」ではなく「火花」なのか。苦しみながら、しかし真摯に、笑いに取り組む徳永と神谷が織り成す化学反応を「火花」として形容したのであろうか。
『金閣寺』(三島由紀夫、新潮社、1960年)
『豊饒の海(一)春の雪』(三島由紀夫、新潮社、1969年)
『豊饒の海(二)奔馬』(三島由紀夫、新潮社、1969年)
『豊饒の海(三)暁の寺』(三島由紀夫、新潮社、1970年)
『豊饒の海(四)天人五衰』(三島由紀夫、新潮社、1971年)
『豊饒の海(一)春の雪』(三島由紀夫、新潮社、1969年)
『豊饒の海(二)奔馬』(三島由紀夫、新潮社、1969年)
『豊饒の海(三)暁の寺』(三島由紀夫、新潮社、1970年)
『豊饒の海(四)天人五衰』(三島由紀夫、新潮社、1971年)
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