現在の日本社会が直面している問題は、安定した社会関係の脆弱化が生み出す「安心」の崩壊の問題であって、欧米の社会が直面している「信頼」の崩壊の問題とは本質的に異なった問題だと筆者は考えています。筆者は信頼を、集団主義の温もりのなかから飛び出した「個人」にとっての問題であると考えており、したがって集団主義社会の終焉が生み出す問題は安心の崩壊の問題であると同時に、集団の絆から飛び出した「個人」の間でいかにして信頼を生産するかという問題だと考えています。(9頁)
ここに、著者の本書における、および本書のもととなる研究における課題意識が凝縮されていると言えるだろう。顔と名前が分かる固定的な集団主義社会における安心の崩壊という現象を踏まえ、一般的他者との新たな関係性を前提にした開かれた社会において信頼関係をいかに構築するか。1990年代に書かれた本書の時代から20年ほどが経った現代においても、私たちは依然としてこの課題に対処しきれていないのではないか。だからこそ、こうしたもはや古典的名著とも言える社会科学の解説書は現代を生きる私たちにとって有用なのである。
機会費用が取引き費用を上回るようになっても、人々は従来のコミットメント関係を維持する傾向があることを見てきました。そのような状況でコミットメント関係から離れないのは、少し極端な言い方をすれば、すでに桎梏になってしまっている関係から、そこで提供されている安心の「呪縛」のために人々が抜け出せないでいる状態だと言えます。このような状態で安心の呪縛から人々を解き放ち、外部に存在する機会の利用を可能としてくれるのが、特定のコミットメント関係にない人間に対する信頼、つまり一般的信頼の役割です。(80頁)
不確実性が低い社会、いわゆる日本の「ムラ社会」を理念型とした社会においては、機会損失よりも取引き費用の節減の方がインパクトが大きい。したがって、安心社会およびそうした社会における固定した人間関係に対するコミットメントが求められる。しかし、不確実性が高まる社会においては、そうしたパラダイムからの脱却が求められることは自明であろう。では何が求められるのだろうか。
一般的信頼は、安心していられるコミットメント関係からの「離陸」に必要な「推力」を提供する、「ブースター」の役割と果たすものと考えることができるでしょう。また、一人一人の個人が固定した関係の桎梏から解き放たれ、関係外部に存在する有利な機会を積極的に利用するようになれば、社会全体では機会と人材の有効なマッチングが可能となります。このことを逆に言えば、一人一人の個人が機会費用を支払いながらコミットメント関係にとどまっている状態は、社会全体としてみると巨大な無駄を生み出している状態です。(80頁)
不確実性が高まる社会においては、一般的信頼が鍵概念となる。一般的信頼を足がかりにして、閉じられた社会から自分自身を解き放つこと、である。
高信頼者は社会的な楽観主義者であって、そのため他人とのつきあいを積極的に追求すると考えることができます。そのため、その中で他人の人間性を理解するための社会的知性が身についていきます。これに対して低信頼者は社会的な悲観主義者であって、そのため他人、とくによく知らない他人とのつきあいを避けることになり、結果として他人の人間性を理解するための社会的知性を身につける機会を逃してしまいます。(139~140頁)
一般的信頼を活性剤としながら、不確実性の高い社会においては、固定的な人間関係に囚われず、新しい人間関係を築いていくことが求められる。社会的知性によって、他者への共感性を磨きながら、他者の立場に立って行動することができるようになる可能性が高まる。こうした「相手の立場に身を置いて相手の行動を推測する能力を核とする社会的知性」を著者は「ヘッドライト型知性」(204頁)と呼んでいる。
信頼やそれに基づくネットワークに関する著者の知見は、経営学の中でも最近では取り上げられることが多い。特に、相互作用の網の目を自分自身で紡ぎ出しながら、そうした関係性の中で学ぶことの重要性は、経営学習論の領域で越境学習としても注目されていることと符合する。たとえば、中原先生の『経営学習論』や石山先生の『組織内専門人材のキャリアと学習ー組織を越境する新しい人材像ー』を紐解いていただければ、理解していただけるだろう。
『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)
『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー、清水幾太郎訳、岩波書店、1972年)
『「しがらみ」を科学する』(山岸俊男、筑摩書房、2011年)
『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー、清水幾太郎訳、岩波書店、1972年)
『「しがらみ」を科学する』(山岸俊男、筑摩書房、2011年)
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