2016年2月6日土曜日

【第544回】『近代日本の陽明学』(小島毅、講談社、2006年)

 大塩平八郎や西郷隆盛が陽明学から影響を受けた人物であったことは理解していたが、それ以外にも多くの歴史的人物が陽明学と近しい存在であったことは知らなかった。そうした事実に基づく、陽明学が近代日本にもたらした影響に関する著者の仮説は興味深い。

 そもそも、人々がみなで共有できる「歴史認識」などというものが存在しうるのかという、きわめて原理的な問いである。わたしの語る「近代日本の陽明学」は、あくまでわたしの物語であり、あなたにはあなたの、こなたにはこなたの、「近代日本の陽明学」がありうるだろう。無限の相対主義に陥るやもしれないこの泥沼でもがき苦しむことなしには、「近隣諸国との友好」などあり得ない。反・陽明学的心性を持つわたしからの、これはみなさんへの挑戦状である。(10頁)

 まず議論の前提として、自身の主張も含めた知の相対化を著者は強く主張する。自分自身が主張していることや同意見であるとしているものを絶対視したい心境は私たちに根深く存在するものだ。そうした存在に依拠することで、私たちは安心感や信頼感を得ることができるからである。絶対的な存在なしで生きられる人は、少ないものだろう。しかし、だからといって何かを盲従したり盲信したりすることに害悪があることもまた、いうまでもないだろう。そうであるからこそ、「無限の相対主義」の中で、私たちは自分の視座を幅広く持ちながら、いつでも反論され得る状況の中で生きることが求められるのである。

 何が彼を陽明学に引き込み、ついには決起にまで至らせたのか。ごくごく単純化して乱暴にいえば、それは「彼の気質がもともとそうだったから」というほかはない。大塩の考えが陽明学者になってから変わったのではなく、そういう考え方をする人だったから陽明学に惹かれたのである。そして、これもまた、陽明学者の多くにあてはまることである。(23頁)

 陽明学が人に影響を与えるということではなく、陽明学を受け入れられる素地を持つ人物がいて、陽明学が自然と受容されるものだと著者はする。思想とは、そうしたものなのかもしれない。


0 件のコメント:

コメントを投稿