漱石の作品の中で、最初に印象深く思ったのは本作であった。風景における美や、内面が外化されることの美といった、漱石が描き出す美に魅了されたからだろうと思う。
私たちが自然の風景を美しいと思う心情は、本質的に備わっている作用ではない。風景という概念は、風景画が誕生した一五世紀頃から発明されたものにすぎない。日本においても、一九世紀初頭から葛飾北斎や歌川広重が描き出すまでは、風景は存在しなかったのである。風景に美を見出し、それを現出した画家たちの努力に因って、私たちは自然の中に風景という美を認識することができるようになったのである。
絵画によって描き出す風景を、文章によって描き出すことの難しさは、また異なるものなのだろう。本書は、それを体現しているからこそ、私たち読者を惹きつけるのではないか。たとえば、雨中を歩く主人公を描く以下の箇所は、情景を思い描くことが容易にできるだろう。
茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。(Kindle No. 217)
後者について、すなわち内面が外化された場面を挙げるとしたら、やはり以下のラストシーンになるだろうか。
茶色のはげた中折帽の下から、髭だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(Kindle No. 2731)
本作は、漱石の他の作品と比べると分量の割には登場する人物が多く、プロットを味わうのに難儀することもある。しかし、ヒロイン的存在である那美と離縁した夫との関係を端的に描くこの箇所に内面描写の凄味が凝縮されているようだ。