2017年7月1日土曜日

【第722回】『野分(2回目)』(夏目漱石、青空文庫、1907年)

 本作の白井道也とは漱石が自身を投影した人物なのだろうか。最後のシーンで若い学生たちに檄を飛ばす箇所がある。そこでは、社会を痛烈に風刺しながらもウィットに富んでいて、さらには学生たちに対する熱いメッセージも込められていて、晩年の『私の個人主義』のような趣もあるようだ。このように考えていると、この主人公を漱石と見てしまうのである。

 わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得るために世のために働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。こう働かなくって満足が出来ないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思っています。(Kindle No. 1816)

 私たちは名前を気にする。名より実と言ってみたところで、名は気になるものだ。では実とは何か。漱石は、道に従うことが肝要だと道也に述べさせている。つまり、自分という枠で捉えるのではなく、無私の地点から捉え直し、そこに専心することが働くことの意味なのかもしれない。

 諸君。諸君のどれほどに剛健なるかは、わたしには分らん。諸君自身にも知れぬ。ただ天下後世が証拠だてるのみである。理想の大道を行き尽して、途上に斃るる刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行くのである。諸君は諸君の事業そのものに由って伝えられねばならぬ。単に諸君の名に由って伝えられんとするは軽薄である(Kindle No. 2437)


 無私の境地になって、名を度外視して働くことで、はじめて私たちは何かに貢献するということができるのであろう。働くということは、崇高な作用を与えうるものなのである。とはいえ、難しく考えすぎる必要はないだろう。ただただ仕事に没頭し、それを提供できる他者だけを意識すること。そうすることが、自分ではなく道に従って生きるということなのではないだろうか。


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