正直に言えば、本格的に数式がふんだんに盛り込まれている書籍を読むのには躊躇してしまう。しかし、それでも時に読みたくなるのが数学に関する書籍であり、そうした意味では、数学の研究者の手になる本書のようなエッセーに巡り会えることは僥倖である。
起源にまで遡ってみれば、数学は端から身体を超えていこうとする行為であった。数えることも測ることも、計算することも論証することも、すべては生身の身体にはない正確で、確実な知を求める欲求の産物である。曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない。
一方で、数学はただ単に身体と対立するのでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のないところに数学はない。古代においてはもちろん、現代に至ってもなお、数学はいつでも「数学する身体」とともにある。(2頁)
数学というものに対して、物事を抽象化し、身体という具体的な存在を拡張することで世界を解釈する存在というイメージを持っていた。前者はまさにこうした私のイメージを言い表しているが、後者はその反対である。両者を兼ね備えていることが数学の可能性であり、ともすると忘れてしまう後者に焦点を当てて、丁寧に綴られているところに本書の存在価値がある。
数学の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数字が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。
ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。(39~40頁)
抽象化と具体化の統合は、思考と行動の垣根の融解に繋がる。私たちは思考と行動とを二項対立の関係にあるかのように考えてしまう。しかし、その違いをいざ指摘しようとすると、どこまでが思考で、どこからが行動かを言い当てることは難解である。ことほど左様に、思考と行動とは離れた概念ではなく、相補的な存在なのである。
「工場から出てきたばかりの機械に、大学を卒業した人と同じ条件で肩を並べるのを期待するのは不公平というものである」とチューリングはいう。なぜなら人間は、二十年以上他者と接する中で大いに外部からの影響を受け、それによって行動のルールを繰り返し書き換えさせられているからである。知的な機械をつくろうとするならば、機械もまた、そうした干渉に対して開かれていなければならない。つくるべきは大人の脳ではなく、幼児の脳のような、学びに開かれた機械である。(100~101頁)
著者が「人工知能の最初のマニフェスト」と称揚する数学者チューリングの至言である。たしかに現代を予言するかのような、人工知能の本質を簡潔に指摘した言葉である。閉じるのではなく、開くこと。可変性こそが、知を生み出し、発展させる必要不可欠な要素なのであろう。
自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。(170頁)
チューリングとともに著者が本書で取り上げている数学者が岡潔である。「わかる」という経験は論理的に導出する、つまりは客観的に把握することではない。主観によって対象に没入し、その後でそれを客観視することによって初めてその対象を「わかる」ことができる。
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