最初に本シリーズを読んだ時も感銘を受けたものだが、二回目というのもいいものだ。一回目の時には読み飛ばしていたり、繋がりがわかっていなかった部分に気づくことができている、と思う。
第一巻の主人公の生まれ変わりである飯沼勲という人物に対して、個人的には全く共感できない。にも関わらず、彼の推進力というか気持ちの持ちように、なんとなくのめりこんで読んでしまうし、生き様に心地よさを感じるのだから不思議である。
どうしても三島の死に方と、飯沼勲の死に方とを結びつけて私は考えてしまう。前者の死に方には破滅というかネガティヴな印象を受けるが、後者の死に方には破滅の匂いがせず、清々しいものすら感じてしまう。これが、現実と創作との違いであろうか。
もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになってゆく。かつてあった、ということと、かくもありえた、ということの境界は薄れてゆく。夢が現実を迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似していた。
ずっと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。そして過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついているように思われるので、夢との境目は一そうおぼろげになってしまう。それほどうつろいやすい現実の記憶とは、もはや夢と次元の異なるものになったからだ。(9~10頁)
上に引用した箇所は、最初に読んだ時と全く同じ箇所に感銘を受けていて、そのこと自体に驚いた。現実とは一つではなくて多様に解釈できるものであり、過去の中にある記憶すら多様に解釈可能である。だからこそ、私たちはそうした多義性をもとにして、未来を深く多様に考えることができる。大人になることは可能性が減ることだと若い時分には考えていたが、そうでもないことが、ここに示唆されているように読み取れる。
勲は自分の世界を信じすぎていた。それを壊してやらねばならぬ。なぜならそれはもっとも危険な確信であり、彼の生を危うくするものだからである。
もし勲が計画どおりに決行し、暗殺し、自刃していたとしたら、彼の一生は、誰一人、「他人」に出会わずに終る生涯になったであろう。(中略)
今こそ、勲は憎しみを知っただろう。それこそは彼の純粋世界にはじめてあらわれた異物の影だった。どんな切れ味のよい刃も、どんな駿足も、どんな機敏な行動も、ついに統括しえず制御しえないところの、したたかな外界の異物だった。すなわち彼は、彼がその中に住んでいた金甌無欠の球体に、「外部」の存在することを学んだのだ!(462~463頁)
未成熟な状態とは、清濁併せ持つことができない状態であり、存在しえないイデアに殉じようとして、それでいて何も実現できないということなのかもしれない。それは、美しいものなのでは決してなく、未熟であるだけなのではないか。自分で自分を満足できないのみならず、他者に対しても貢献できない夜郎自大になってしまう可能性がある。
だからこそ、自分のビジョンの中に他者との関係性や他者からのフィードバックを踏まえて入れ込むことが肝要になるのだろう。他者という自分が想像できず、自分でコントロールできな存在を対置することで、翻って自分という人間の価値を見出す頃ができるのではないか。こうした気づきを得た主人公が、それでも最後に自刃へと至るからこそ、彼の主義主張や政治思想に共感できないにも関わらず、何かに魅せられるのであろう。
【第192回】『豊饒の海(一)春の雪』(三島由紀夫、新潮社、1969年)
【第193回】『豊饒の海(二)奔馬』(三島由紀夫、新潮社、1969年)
【第194回】『豊饒の海(三)暁の寺』(三島由紀夫、新潮社、1970年)
【第195回】『豊饒の海(四)天人五衰』(三島由紀夫、新潮社、1971年)
【第193回】『豊饒の海(二)奔馬』(三島由紀夫、新潮社、1969年)
【第194回】『豊饒の海(三)暁の寺』(三島由紀夫、新潮社、1970年)
【第195回】『豊饒の海(四)天人五衰』(三島由紀夫、新潮社、1971年)
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