2018年1月8日月曜日

【第797回】『新リア王(上)』(高村薫、新潮社、2005年)

 一人の政治家と、その妾腹の息子との長い長い対話。タイトルからも推察されるように、ひたすら対話が続く物語である。政治活動についての述懐が多いために登場人物が多く、読み始めはなかなか理解が追いつかない。しかし、読み進めていくと、人物名の多さは次第に気にならなくなり、二人の対話もしくはモノローグに惹きこまれていく。

 もしも仏があるなら、それは人が坐りきることの不可能性のなかにあり、私たちはみな不可能に向かって坐るのだろう。脳中枢を飛び交う種々の意識の電気信号の海と、そこに浮かんで生きるでなく死ぬでもない仮死の呼吸をしている身体の小舟のどちらでもない、あわよくばごくごく希薄な無名の生命感覚と化して、人は坐るに過ぎない。(232頁)

 仏教に帰依しておらず、かつ座り続けることが苦手な身としては、なぜ座禅というものがあるのか、恥ずかしながらよく分からない。正座を続けていれば次第に慣れてくるということは頭では理解できる一方で、身体感覚としては実感がわかない。しかし、ここで述べられている、座禅をして身体感覚と思考活動とがなくなる無の感覚を目指しながら、そこには至れないというのは深みを感じる。


 仕事でも難解なチャレンジというものは存在する。不可能性を自覚しながらそれを目指すということは、結果ではなく過程をたのしむコツなのではないか。


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