仏教における輪廻転生の概念を感得する題材として本書を読むと良い。このように本書を推薦していたのは法社会学者の小室直樹であったと記憶している。仏教にコミットする立場にないためか、宗教学の書籍を読んでも輪廻転生という言葉の持つ意味合いがよく掴めないため、小室の言葉を思い出して本書を読み始めた。特定のテーマを念頭に置いて読書をすると、そのテーマに惹き付けてその書籍を捉えてしまう。そうすることが興味関心を狭められて煩わしくもなるが、日常的に目にすることがない読者やジャンルに目を向けて新鮮な気づきを得ることにも繋がる。私にとっては、後者の意味合いが強い読書体験となった。
著者は、主人公の輪廻転生を繰り返す様を見続けることになる、本多の長い語りの中で、転生の考えの根幹を為す個人の意志について以下のように述べている。
「俺はこの間うちから、個性ということを考えていたんだよ。俺は少なくとも、この時代、この社会、この学校のなかで、自分一人はちがった人間だと考えているし、又、そう考えたいんだ。」(122頁)
このように一人ひとりが持つ意志について触れた上で、そうした個人の意志が長い時間軸の中で希釈化されることについて著者はさらに論を進める。
「百年たったらどうなんだ。われわれは否応なしに、一つの時代思潮の中へ組み込まれて、眺められる他はないだろう。(中略)一つの時代の様式の中に住んでいるとき、誰もその様式をとおしてでなくては物を見ることができないんだ」(122頁)
個人の意志とは関係なく流れる、個と隔絶した歴史という存在。歴史のなかに埋没せざるを得ない個人。こうした有限な存在としての個人と、それに対立する歴史という構図から脱却するために、著者は、シャムから来ている王子との交流から本多に輪廻について空想させる。
「たしかに人間を個体と考えず、一つの生の流れととらえる考え方はありうる。静的な存在として考えず、流動する存在としてつかまえる考え方はありうる。そのとき王子が言ったように、一つの思想が別々の「生の流れ」の中に受けつがれるのと、一つの「生の流れ」が別々の思想の中に受けつがれるのとは、同じことになってしまう。生と思想とは同一化されてしまうからだ。そしてそのような、生と思想が同一のものであるような哲学をおしひろげれば、無数の生の流れを統括する生の大きな潮の連鎖、人が「輪廻」と呼ぶものも、一つの思想でありうるかもしれないのだ。」(283頁)
ここでは、先述した無機物としての歴史という考え方が、個々人の生き生きとした人生の繋がりという有機物としての歴史という意味合いから輪廻という概念が説明されている。こうした個人の行為と時代精神とが統合されて、有機体としての歴史という意味合いでの輪廻転生という考え方が形成される。その最初のクライマックスとして、主人公は死を迎える。
「『お上をお裏切り申上げたのだ。死なねばならぬ』」(436頁)
宮家と婚約中であった幼なじみとの悲恋の結末に対する責めを主人公に背負わせて早世させたのは、著者の思想という個人の思想が為せるものなのか、1960年代という時代精神が為させたものなのか。個人と歴史という対立を止揚したところにある輪廻転生の物語のはじまりの終わりである。
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