『豊饒の海』第一巻で、松枝清顕が死の前に本多繁邦に「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」(50頁)と転生をほのめかした通りの場所で本多は清顕の生れ変りと出会う。その生れ変りである飯沼勲は、清顕の家の書生であった飯沼茂之を父に持つ。深い因縁と転生とが織り成す複雑な関係性の中で、1930年代の独特な空気の中で新風連を昭和に再来させるという純な精神で勲は改革を夢見て実行する。本多は、清顕の死を免れなかった自責の念で、勲の死を食い止めようとするが、自死を避けられずに、転生の物語は第三巻へと繋がる。
転生という想念を考えることは、私たちに時間軸に対する意識を持たせることになる。将来とはなにか。過去とはなにか。時間という連続体の中で、現在をどのように意味付け、日常を生きるのか。本多は、自身の多感な時期に接した清顕を折りに触れて振り返ることで、時間への意識を思い浮かべる。
「もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになってゆく。かつてあった、ということと、かくもありえた、ということの境界は薄れてゆく。夢が現実を迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似していた。
ずっと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。そして過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついているように思われるので、夢との境目は一そうおぼろげになってしまう。それほどうつろいやすい現実の記憶とは、もはや夢と次元の異なるものになったからだ。」(9~10頁)
若い時分には将来という膨大な可能性が目の前に拡がるために、将来を起点として現在を捉える。ある一時点での将来において求められるものから逆算して現在なにを行うべきかをカスケードダウンする。将来が静的なものであればそうした態度と行動によって合理的な最適解を導き出すことができるが、現実は多様であり変化に富んでいる。このような動的なあり方を前提に捉えれば、過去における一つの行動における多面性に目が向くようになる。過去の多様性とはすなわち、過去の蓄積としての現在の自分自身の多様性を生み出す源だ。したがって、自身の多様性に目を向け、将来のあり得るべき自身へと適合させていくことだ。
そう、これはキャリア理論である。当時の三島がこうしたキャリアへの展開を視野に入れていたとは思えないが、人生論とはすなわちキャリア論である。60年代後半という社会運動が盛んな荒れた時代において転生をテーマとしながら三島が捉える独特な時間感は、2010年代という生活不安と格差社会という時代におけるキャリア論へと繋がる。
このように歴史から学ぶということについて、三島は、明治初期の新風連を昭和に再来させようとする勲を諭す手紙の一部に記している。
「私は何もキリスト教思想の清新を支持して、新風連思想の古臭さと頑迷固陋を嗤おうとする者ではありません。ただ歴史を学ぶには、一時代の一部分にだけ目をとられず、その時代をその時代たらしめた多くの複雑な相矛盾した諸因子を万遍なく検討し、一部分をしてその所を得しめ、その部分に特殊性を与えた諸要素をひとつひとつ考究し、以て全体的な、均衡のとれた展望の裡に、これを置いてみることが必要だと思うのです。
私にはそれこそ歴史を学ぶことの意義だと思われる。なぜなら、いつの時代でも、現代というものは、一個人の目に映る範囲が限られており、その全体像を把握することは甚だ困難である。それならばこそ、歴史の全体像が参考ともなり鑑ともなるのであって、現在の時々刻々の部分的世界像に生きる人間が、時を隔てた歴史によって展望が可能になった全体的世界像を援用し、そのおかげで自分の管見を匡すことができるのです。それこそ歴史に対する現代人の喜ぶべき特権なのです。
歴史を学ぶことは、決して、過去の部分的特殊性を援用して、現在の部分的特殊性を正当化することではありません。過去の一時代の嵌め絵から、一定の形を抜き出して来て、現代の一部分の形にあてはめて、快哉を叫ぶことではありません。それは単に歴史をおもちゃにすることであり、子供の遊びであります。」(136~137頁)
個人という視点から、社会という視点における歴史を考える上での至言であろう。第一巻の書評で論じたように、時代思潮という膨大な川の流れの一部と捉えれば、ある地域のある時代における行動は全てが同じ考えの中にあるように映る。しかし、そこから一つのピースを持ち出して、現代の近しいと思える部分に適用させようとすることは誤っているというのが本多の手紙の主張だ。なぜなら、そのピースは他の要素との兼ね合いで収まっていたものであり、他の文脈にそのまま適応させることは不可能だからである。部分への意識を高め、そこから全体を想像し、仮説を立てる。その仮説を以て、現代社会に適用してみて、改善を加える。こうした地道な当て嵌めの繰り返しこそが、歴史から学ぶということであろう。
歴史は繰り返すと言われる。全く同じ事象が起こるということではなく、アナロジーとして言われることであるが、そこには共通するパターンがあるのだろう。共通するパターンがあるということは、その主語は私たち個人ではなく、時代というものであろう。それが本書でも貫かれる輪廻転生というテーマである。
「仏教では、こういう輪廻の主体はみとめるが、常住不変の中心の主体というものをみとめない。我の存在を否定してしまうから、霊魂の存在をも決して認めない。ただみとめるのは、輪廻によって生々滅々して流転する現象法の核、いわば心識の中のもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり、唯識論にいう阿頼耶識である。
この世にあるものは、生物といえども中心主体としての霊魂がなく、無生物といえども因縁によって出来たもので中心主体がないから、万有のいずれにも固有の実態がないのである。」(256~257頁)
時代精神に徒に従属することを強調したいわけではない。そうではなく、ともすると自己意識が強い現代社会において、時代精神の存在に目を向け、微小な存在としての私という謙虚な意識を持つことの重要性について考えたいのである。謙虚に歴史に学び、謙虚に生きること。現代は、こうした考え方を強調してよい時代なのではないか。
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