2013年8月31日土曜日

【第194回】『豊饒の海(三)暁の寺』(三島由紀夫、新潮社、1970年)

 金銭や栄達を望まず、法務にひたすら取り組んで来た本多に転機が訪れる。扱っていた裁判の案件で偶然に莫大な財産を築き上げることになるのである。この財産に関する本多の見解が以下の部分によく表れている。

 「欲するものが何一つ手に入らず、意志が悉く無効におわる例を、本多はたくさん見すぎていた。ほしがらなければ手に入るものが、欲するが為に手に入らなくなってしまうのだ。」(26頁)

 欲すれば遠ざかり、欲さざれば近づく。こうした真理に至りながら、本作の結論部分では、欲するが故に愛する存在から遠ざかる本多の姿のコントラストが痛ましい。

 「恋とはどういう人間がするべきものかということを、松枝清顕のかたわらにいて、本多はよく知ったのだった。
 それは外面の官能的な魅力と、内面の未整理と無知、認識能力の不足が相俟って、他人の上に幻をえがきだすことのできる人間の特権だった。まことに無礼な特権。本多はそういう人間の対極にいる人間であることを、若いころからよく弁えていた。」(332頁)

 違う角度から表現すれば、真理やきれいごとを理解しながらも、それを体現し続けることの難しさを三島は本多を通じて示唆しているようにも受け取れる。品行方正な人間であっても、大金を唐突に得た直後に身を持ち崩すという形式は、莫大な金銭によって外面と内面との均衡が崩れることによって生じるのだろう。本多の場合は、不均衡を是正しようとする手段として、自身がその対象外であると信じていた恋へと傾倒するのである。

 こうした真理に関する考え方は死生観にも関連することとなる。死を意識することで、新たな生へと考えが至るようになるのである。

 「死を決したころの勲は、ひそかに「別の人生」の暗示に目ざめていたのではないだろうか。一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人はおのずから、別の生の存在の予感に到達するのではなかろうか。」(34頁)

 松枝清顕の生れ変りである飯沼勲の第二巻の最終盤で至った心境をもとにここでは例示している。現在の生命に対して、冷静にかつ愚直に取り組むが故に、現在の生命の後の生命へと意識がいく。輪廻転生をする主体の核となる考え方に三島が触れている点に着目すべきであろう。

 生と死が繰り返される輪廻転生において、現在をどのように捉えるか。仏法のテクストを本多に紐解かせながら述べさせる三島の考えを最後に引用する。

 「最高の道徳的要請によって、阿頼耶識と世界は相互に依為し、世界の存在の必要性に、阿頼耶識も亦、依拠しているのであった。
 しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。」(161頁)


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