本書は、夏目漱石がその独創性を評価したことで有名である。なにがそれほどまでに独創的なのか。端的に記せば、子どもの世界を子どもの視点で描いていることだと、本書を解説している和辻哲郎が以下のように述べている。
『銀の匙』には不思議なほどあざやかに子供の世界が描かれている。しかもそれは大人の見た子供の世界でもなければ、また大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。それはまさしく子供の体験した子供の世界である。子供の体験を子供の体験としてこれほど真実に描きうる人は、(漱石の語を借りて言えば)、実際他に「見たことがない」。大人は通例子供の時代のことを記憶しているつもりでいるが、実は子供として子供の立場で感じたことを忘れ去っているのである。(中略)こうなると描かれているのはなるほど子供の世界に過ぎないが、しかしその表現しているのは深い人生の神秘だと言わざるを得ない。(225~226頁)
子供時代のことを子供の視点で書き、その筆致が他の先行する小説家の書き方や考え方と異なるという点に漱石はその独創性を見出したのである。子供の視点で書けるということは、シンプルで本質を見抜く子供から見た世界を描き出せるということである。では著者は、本書でなにを見出しているのだろうか。それは以下の場面に典型的に現れているようだ。
次の日には桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけぬ鞄をはすにかけてなんともいえない混乱した気もちをしながら伯母さんに手をひかれて学校へいった。この不慣れな様子を人に見られるのが恥しいのとまだ知らぬ学校生活の心配とに小さな胸を痛めて自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。(80頁)
持ち慣れない真新しい鞄を持つときの違和感。恥ずかしいために前を向いて歩けず、唯一信じられる自分の身体感覚に頼ろうと自分の足元を見続ける頼りなげな視線。自分だけでは新たな世界に行く自信がないために、大人に手を引かれることを契機として不安を感じながら踏み出す第一歩。はじめて学校に行った時の経験がフラッシュバックするかのような経験ではなかろうか。書かれてみれば共体感できるものであるが、著者のこの言なくして自分自身でアウトプットすることは難解であろう。
次に、学ぶというものに魅了される過程について。
面目ないことだが私には今まで習ったことがかいしきわからない。で、落胆して何度投げ出そうとしたかしれないのを御褒美の菓子やなにかで騙され騙されしてつづけるうちになにか薄紙でもはぐようにすこしずつわかりはじめた。読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題とけ、二題とけするにしたがい次から次へと智識は幾何級数的に進んでゆくので終いには自信もでき、興味も加わって、家へ帰ればいわれぬうちに自分から机をもちだすようになった、もとよりひとに褒められたいのがおもな動機で。試験には間もなかったが勉強のかいあって次の学期には二番になった。(108頁)
ものごころがついたときから勉強が好きで、得意だという方もいるだろうが、私には著者の感覚がとてもよくわかる。いやいやながら宿題をする。他人に認められることで自分が「ここにいていい手応え」を得るために勉強をする。過程における喜びなどどうでもよく、ひたすら試験の結果だけを追い求める。しかし、こうした無味乾燥な勉強が積み重なることで、一つひとつの断片の知識が繋がり、勉強するたのしさにはたと気付く瞬間が訪れる。
こうした主体的な営為の結果として得られる学びの深さに対して、他者から正論ばかりを押し付けられる学習には反感を覚えるものだ。
私のなにより嫌いな学課は修身だった。高等科からは掛け図をやめて教科書をつかうことになってたがどういう訳か表紙は汚いし、挿画はまずいし、紙質も活字も粗悪な手にとるさえ気もちがわるいやくざな本で、載せてある話といえばどれもこれも孝行息子が殿様から褒美をもらったの、正直者が金持ちになったのという筋の、しかも味もそっけもないものばかりであった。おまけに先生ときたらただもう最も下等な意味での功利的な説明を加えるよりほか能がなかったのでせっかくの修身は啻に私をすこしも善良にしなかったのみならずかえってまったく反対の結果をさえひき起した。(169~170頁)
深く学んでいる者ゆえに、浅薄な正論を単に押し付けられることへ抵抗感をおぼえるのだろう。小学校の「道徳」の授業も同じようなものであった。誰もが一見して是としか言いようのないものを教材にしたところで、深く考えさせた結果として得られる豊かな学びは得られない。小学校低学年で覚えた掛け算九九を高校生になってわざわざ試験されると、受けさせられる側は自分が馬鹿にされているように感じるだろう。単純な是非の問題をいつまでも繰り返すのは学習にとって逆効果だ。教育に携わる身として、意識しておきたい点である。
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