2013年10月19日土曜日

【第212回】『口語訳 古事記[神代篇][人代篇]』(三浦佑之、文藝春秋社、2006年)

 古事記とは、語り部が語ったものを文書に起こして編纂されたものだと言われている。ために、書物になっているとはいえ、ソシュールの概念定義に即して言えば、ラングではなくパロールに近いものである。こうした語りを前提とした書物の役割とは何だろうか。

 わたしたちの使う文字は、ある一つの世界へと物事を集約しようとしますが、語りごとはいくつもの世界へと拡散しようとする表現だと言えるのではないかと思っています。語りは、文字のようにただ一つのものを求めようとはしないのです。その言葉はかならず消えてしまいますが、不確かな耳しか持たないわたしたちの世界とは別の世界にも届かせようとする言葉、それが語りごとなのです。(神代篇・12~13頁)

 ラングが世界観を集約する機能を有するのに対して、パロールは世界観を拡散する機能を有すると著者はしている。つまり、読み手に多様な解釈可能性を与え、それぞれに即した気づきを与えることが古事記の役割なのであろう。これは、天皇制を正当化し<日本>という国家を形作るために正史として正確かつ一義的に編纂された日本書紀とは異なる点である。世界観の発散と収束の観点に鑑みれば、両者は真逆の機能を有した歴史書なのである。

 神話とは、人と、大地やそれをとり囲む異界や自然、あるいは神も魔物も含めた生きるものすべてとの関係を、始源の時にさかのぼって説明するものだ。それを語ることによって、人が今ここに生きることを保証し、限りない未来をも約束することで、共同体や国家を揺るぎなく存在させる。神話とは、古代の人びとにとって、法律であり道徳であり歴史であり哲学であった。だからこそ、人が人であるために神話は語り継がれた。(神代篇・276頁)

 世界観に対するベクトルが異なるとはいえ、最古の歴史書である以上、国民が抱く自国のあり方を規定するという機能を日本書紀と古事記とは持っている。歴史の源が神話として描かれることはキリスト教・ユダヤ教・イスラーム教といった主要な宗教と同じであり、これが「日本教」という言葉遣いが時に為されることの理由であろう。神話に対する感受性が乏しくなってきた現代においても、古事記で描かれる英雄たちの物語を読めば、現代の日本における物語の構成との類似性に気付かざるを得ない。両者の間には、綿々と受け継がれる何らかの影響があるのだろう。

 これら三人の英雄はまったく同じだというわけではない。スサノヲには神話的な英雄性があり、共同体に秩序をもたらす役割が与えられている。ヤマトタケルは天皇の命令を受けて遠征し悲劇的な最期をとげる。オホハツセワカタケルは天皇となって国家を支配する。それぞれが置かれた時代を映しながら、共通する正確や内容をもって語られてゆく。そうした物語のらせん状のくり返しも、音声表現が見出した語り口だとみてよい。(神代篇・250頁)

 似たような物語の構造が時代を超えて繰り返されるのみならず、古事記の中においても、似たような構造が繰り返される。過去のエントリー(『古事記講義』(三浦佑之、文藝春秋社、2003年))でも述べたが、古事記における英雄物語の構造は似ている。これは著者が述べるようにパロールという特性から生じたものであろう。

 <私たち>の国家を形作る歴史書を紐解くことで、日本史というパラダイムから私たちの意識が完全に解き放たれることはない。しかし、<私たち>の歴史というパラダイムの存在を自覚した上で、<私たち>と異なる国家や文化に属する方々と節度を持った上で交流すること。グローバリゼーションがすすむ現代社会においては、英語というラングに頼るのではなく、こうしたマインドセットを持つことが求められるのではないだろうか。

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