蔫薑という架空人物を孔子の弟子として仕立て上げ、蔫薑の視点から孔子とその一門の様子を描く小説である。『論語』の世界観を著者独自の視点から解説する壮大な作品であり、『論語』をより深く理解する上で興味深かった。特に感銘を受けた三つのポイントとともに、著者の人間らしい一面について最後に触れたい。
第一に、孔子の考え方の根幹を為す仁について。
”仁”という字は、人偏に”二”を配している。親子であれ、主従であれ、旅で出会った未知の間柄であれ、兎に角、人間が二人、顔を合せれば、その二人の間には、二人がお互いに守らなければならぬ規約とでもいったものが生れてくる。それが”仁”というものである。他の言葉で言うと”思いやり”、相手の立場に立って、ものを考えてやるということである。(中略) 子は紊れに紊れた天下を、少しでも秩序あるものにするには、この世の中を造り上げている最も根源的なものから正してゆかねばならない。そのように考えられて”信”とか、”仁”とか、そういう問題を取り上げられたのでありましょう。(59~60頁)
仁という言葉からはどこか難しいニュアンスを感じるものであるが、シンプルにその意味を「思いやりである」と著者は大胆に解説を試みている。こうした思いやりの心が大事になるのは、世の中が乱れているからだという。現代を生きる私たちが、改めて大事にしたい考え方であろう。
さらに著者は、子貢と孔子との対話から仁を恕という言葉に言い換えられるとしている。趣き深い表現である。
ーー子貢問うて曰く、一言にして以て終身、これを行なうべきものありや。子曰く、それ恕か。己れの欲せざる所を人に施すこと勿かれ。(中略) ここには、四十六年前、陳都に於て、”仁”という字の解説をなさった時の、子のお声が、そのまま聞えております。陳都では、”相手の立場に立って考えてやること”と、仰言いましたが、ここでは、それを”恕”という一字の言葉に置き替えていらっしゃいます。(290~291頁)
第二に、死に関する孔子の考えについての考察を取り上げたい。
ーー逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎かず。 という子のお詞があります。(139頁) 川の流れも、人間の流れも同じである。時々刻々、流れている。流れ、流れている。長い流れの途中にはいろいろなことがある。併し、結局のところは流れ流れて行って、大海へ注ぐではないか。 人間の流れも、また同じことであろう。親の代、子の代、孫の代と、次々に移り変ってゆくところも、川の流れと同じである。戦乱の時代もあれば、自然の大災害に傷めつけられる時もある。併し、人間の流れも、水の流れと同じように、いろいろな支流を併せ集め、次第に大きく成長し、やはり大海を目指して流れて行くに違いない。(141~142頁) ”逝くものは”は、確かに大きいお詞であります。海のように何でも収め、何でも容れるところがあります。子御自身の、己が人生に対する歎き、悲しみとも受取れましょうし、人間そのものの淋しさを唱っているという解釈もできましょう。或いはまた、厳しい人生教訓として読むこともできます。何に使われようと、まあ、それはそれで結構なことで、子も亦黙って、それをお許しになろうかと思います。(148頁)
ある人物の死というものは非常な悲しみを伴うものである。孔子もまた、顔回や子路の死を嘆き悲しんだ。しかし、顔回の死を経てこの詩を詠んだところに詠嘆を禁じ得ない。自分にとって大事な人の死であっても、それは大きな自然の営為の一部に過ぎないのである。それを嘆き悲しむばかりではなく、その人の生きた意味が現在以降の世界に繋がっていると意識すること。それは、川の上流から水幅が増し、やがて大海へと繋がるような、人間個人と社会・世界との関係性である。壮大な連環を想起させる孔子の言葉は、深い。
第三に天命について。
人間はこの世に生れて来た以上、生れたことを意義あらしめるために、己がこれと信じた一本の道を歩むべきである。その場合、それを天からの使命感によって支えることができたら、素晴らしいことである。と言って、天はいかなる援助もしてくれるわけではないし、いかなる不運、迫害をも防いでくれるわけではない。それと、これとは違うといったところがある。こういうことを理解するのを、”天命を知る”というのであります。(331頁) 人間がこの世に生きてゆく上には、”天命”という頗る正体の判らぬ、合理的と言えば合理的、不条理と言えば不条理の掟のようなものがあって、どうやら人間という生きものは、それから逃れたり、自由になったりすることはできないもののようであります。 吉凶禍福の到来は、正しいことをしようと、しまいと、そうしたこととは無関係。もう一度繰り返しますと、大きい天の摂理の中に自分を投げ込み、成敗は天に任せ、その上で、己が正しいと信じた道を歩かねばなりません。未曾有のこの乱世に於ても、これ以外に、いかなる生き方もないようであります。(334頁)
乱世を生きた孔子のリアリスティックな一面が凝縮されている。天命という言葉からは観念的・理念的なものを想起させられがちであるが、孔子の視線は現実を厳しく捉えて離さない。正しい行いであろうとそれが成就しないことは当然ある。天はそれを支援してくれるわけではない。しかし、そのように覚悟をした上で、正しい行いを継続すること。他者の支援を期待せずとも行ない続けることことが、翻って天命なのである。
最後に、孔子の弟子の人物評について触れたい。子路や顔回と比較してともすると地味な印象のある子貢に関する以下の人物評が私には最も響く。
ーー居なくなってから考えてみると、たいへんなことをやってくれている。みんなやってくれている。”やる!”とも言わないし、”やった!”とも言わない。そして、どこかへ行ってしまう。あとには、やった仕事だけが遺っている。ーーこれが子貢であります。(中略) ーー併し、おそらく、世の中の大きい仕事というものは、文明、とか、文化とかいうものは、なべて、このような人たちによって、このような人たちによって、このような人たちの組合せによって、ごく静かに、目立たない形で生み出されて行くものではないでしょうか。最近、しきりに、子貢のお陰で、このような思いの中に入っている自分に気付きます。(214~216頁) 子に対する子貢の質問の特徴は、どこにも自分を覗かせていないということであります。自分の考えも、自分の見方も、いっさい持ち出さないで、ひたすら師・孔子の言葉を記録し、記憶しておこうという態度であります。(239頁)
たしかに、子路や顔回もすごい人物だ。しかし、私は、子貢のようにありたい。
『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【2回目】
『「論語」人間、一生の心得』(渋沢栄一著、竹内均解説、三笠書房、2011年)
『孔子』(和辻哲郎、岩波書店、1998年)
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