社会学者はなぜかくも鮮やかに「社会」を描き出すことができるのだろうか、と再読し終えた今、改めて感嘆させられる。視野が私たちと異なるのか、問いを立てるのがうまいのか、はたまた単に研究リテラシーが卓抜しているからなのか。本書は、人類学者カスタネダがメキシコのヤキ族の老人ドン・ファンから学んだフィールド調査を、社会学者・見田宗介がやさしく記した作品である。ペンネームである真木悠介の名義で書かれているところから、学術書のような形式張った形式ではないものと判断してよいだろう。しかし、その視野の広さや表現の鋭さは、形式はどうであれ、社会学者の碩学のそれである。
まずはアウトラインから押さえていく。著者は、ドン・ファンの語る思想を四つの局面に基づいて解説する(44頁)。
Ⅰ カラスの予言ー人間主義の彼岸
Ⅱ 「世界を止める」ー<明晰の罠>からの解放
Ⅲ 「統禦された愚」ー意志を意志する
Ⅳ 「心のある道」ー<意味への疎外>からの解放
著者によれば、この四つの局面は厳密なプロセスやステップというわけではないが、順に見ていくことで理解が深まり易いようだ。それでは順を追って見ていくこととしよう。
Ⅰ カラスの予言ー人間主義の彼岸
カラスが予言するというような諸民族のいいつたえにおいて、問題は個々の動物や植物の行動を「予兆」としてよみとる知識の蓄積といったものではない。そのような個々の「予兆」への技術化された知識自体は、われわれの「世界」の中にも、たとえば仮説的情報として切りとってくることができる。けれどもこのような「知恵」じたいをたえず生成する母体そのものは、たとえばこの世界のすべてのものごとの調和的・非調和的な連動性への敏感さや、自己自身をその運動する全自然の一片として感受する平衡感覚の如きものであり、「予兆」への技術化された個々の知識とは、このような基礎感覚の小さな露頭にすぎないのだろう。(56頁)
近代社会の中にいる私たちは、物事を断片化して捉えることを「当たり前」のこととして半ば自動的に行なってしまう。断片化された事象は、普遍的な言葉によって表現されることで、どのような人が眺めても同じ事象として認識される。しかし本来、世界とはそうした一様な存在ではなく、豊潤で多様な可塑性に富んだ存在である。誰が見ても説明可能な普遍的事象はたしかに存在するのであろうが、人によって認識できたりできなかったりする主観的な事象もまた、存在すると考えるのが自然ではないか。ドン・ファンが指摘する「予兆」とは、そうした私たちの一様な眺め方に一石を投じ、自動化を妨げてくれる投げかけである。こうした多元的な世界認識という前提に立つことで、Ⅱの認識の有り様を意識することができる。
Ⅱ 「世界を止める」ー<明晰の罠>からの解放
現象学的な判断停止、人類学的な判断停止、経済学的な判断停止に共通する構造として、<世界を止める>、すなわち自己の生きる世界の自明性を解体するという作用がある。
このことによってはじめて、Ⅰ 異世界を理解すること、Ⅱ 自世界自体の存立を理解すること、Ⅲ 実践的に自己の「世界」を解放し豊饒化することが可能となる。「世界」のあり方は「生」のあり方の対象的な対応に他ならないから、このⅢはいいかえれば、自己自身の生を根柢から解放し豊饒化することに他ならない。(93~94頁)
フッサールの判断停止(エポケー)を用いながら、ある事象に対する判断を留保することの重要性を述べているのがここでのポイントである。第Ⅰ局面で論じられた多元的な世界をそのものとして見るためには、私たちが慣れ親しんだ固定的で普遍的な世界認識のレンズを通して眺めようとすることを止める必要がある。
「呪術師の世界」は、「ふつうの人の世界」の自明性をくずし、そこへの埋没からわれわれを解き放ってくれる翼だ。しかし一方「呪術師の世界」を絶対化し、そこに入りきりになってしまうと、こんどはわれわれはその世界の囚人となる。(84頁)
近代人の行なう世界認識を止めるためには、ある種の呪術師が「予兆」を感じ取るような世界認識が存在することを認識することがその契機になるだろう。しかし、そうした呪術師の世界が「正しく」、近代社会における世界認識が「誤っている」という判断自体もまた近代的な思考の枠組みであり、固定的なものの見方である。著者が警告するのは、こうしたある特定の世界に入り込んでしまって抜け出せなくなることである。
このような二つの「世界」の自己完結力のどちらにも身をゆだねることなしに主体性を保持する力を、ドン・ファンは特別な意味をこめて<意志>とよんでいる。<意志>(will)は<耽溺>(indulgence)の反対語であり、後者の惰性化する力に抗して、反惰性化し主体化する力である。(97頁)
「明晰」を克服したものがゆくべきところは、「不明晰」でなく、「世界を止め」て見る力をもった真の<明晰>である。
「明晰」は「世界」に内没し、<明晰>は、「世界」を超える。
「明晰」はひとつの耽溺=自足であり、<明晰>はひとつの<意志>である。
<明晰>は自己の「明晰」が、「目の前の一点にすぎないこと」を明晰に自覚している。
<明晰>とは、明晰さ自体の限界を知る明晰さ、対自化された明晰さである。(100頁)
ある世界認識に拘泥し固着しないために何が必要か。括弧の違いによって明晰という概念を著者が使い分けていることに留意していただきたい。ある世界を認識する「明晰」さに閉ざされることなく、そうした認識を超えた世界があることを<明晰>に自覚すること。<明晰>によって、世界の多元性をそのものとして理解し、ある特定の世界における「明晰」に内没することを止めることができる。そのための力を、著者は、ドン・ファンの言葉を用いながら意志と表現している。
<焦点をあわせる見方>においては、あらかじめ手持ちの枠組みにあるものだけが見える。「自分の知っていること」だけが見える。<焦点をあわせない見方>とは、予期せぬものへの自由な構えだ。それは世界の<地>の部分に関心を配って「世界」を豊饒化する。(107頁)
こうした意志の力によってどのように世界を見ることになるのか。ここで著者は、特定のレンズによって「焦点をあわせる見方」を用いるのではなく「焦点をあわせない見方」を提示する。それは図と地が反転し続けるように、多元的な世界の認識の有り様が、非連続的に変わり続ける見方である。
Ⅲ 「統禦された愚」ー意志を意志する
<コントロールされた愚かさ>とは、明識によって媒介された愚かさ、明晰な愚行、自由な愛着、対自化された執着である。(138頁)
第Ⅱ局面の主題であった<世界を止める>とは逆に、<コントロールされた愚かさ>とは「世界をつくる」(項目を選ぶ)ことに他ならない。「世界を止める」ということが未だ、消極的な意味での主体性の獲得にすぎないのにたいし、<意志を意志する>というこの局面の主題とは、積極的な主体性の確立である。(139~140頁)
第Ⅱ局面において特定の世界認識を止めるという消極的な主体性を獲得した後に、私たちは積極的に主体性を確立する第Ⅲ局面へと至る。<焦点をあわせる見方>を正とし、<焦点をあわせない見方>を持ち続けるために意志という消極的な主体性を確立することを反とするならば、意志を意志することは合と呼べる。ここにおいて私たちは、自らが、しかし意図的なものではなく自然な流れの中において自ずと主体性を確立することができるのである。
Ⅳ 「心のある道」ー<意味への疎外>からの解放
行動の「意味」がその行動の結果へと外化してたてられるとき、それは行動そのものを意味深いものとするための媒介として把握され、意味がふたたび行動に内化するのでないかぎり、行動それ自体はその意味を疎外された空虚なものとなる。生きることの「意味」がその何らかの「成果」へと外化してたてられるとき、この生活の「目標」は生そのものを豊饒化するための媒介として把握され、意味がふたたび生きることに内在化するのでないかぎり、生それ自体はその意味を疎外された空虚なものとなる。(151頁)
一見して主体性を確立したと認識したとしても、その主体的な事象が他者や自分に対して説明するための「意味」として存在していないか。そうした「意味」に外化した主体性に基づいた行動は疎外された空虚なものとなってしまう。ここに、主体性の陥る罠とも呼べるものがあるだろう。
不可避のものとしての死への認識が、いったんは意味論的な回路を獲得した精神の、「未来」への意味の疎外をとつぜんに遮断するので、現在のかけがえなさへと逆流した意味の感覚が、世界を輝きで充たすのだ。(152頁)
ドン・ファンが知者の生活を「あふれんばかりに充実している」というとき、それは生活に「意味がある」からではない。生活が意味へと疎外されていないからだ。つまり生活が、外的な「意味」による支えを必要としないだけの、内的な密度をもっているからだ。(159頁)
主体性を「意味」へと外化させないための一つの有り様として、死という有限性を意識するということが挙げられている。多様で無限な世界認識の中において、有限な存在における主体性を意識的に選択することによって、私たちの世界は自ずと満ちてくる。それは他者に説明するための「意味」ではないのはもちろんのこと、自分を納得させるための「意味」へと外化されることのない主体性である。自分自身の選択であるとともに、自分という枠に閉ざされない全体性の中における共同主観的な「われわれ」という感覚を有する主体性であるとも呼べるのかもしれない。