2015年1月25日日曜日

【第408回】『生きるための論語』(安冨歩、筑摩書房、2012年)

 著者の書籍は何冊か読んできたが、やはり論語はいいなぁと改めて思わさせられた。著者のどの「論語本」でもキーコンセプトは基本的に変わらない中で、毎回、新鮮に読めてしまうのだから凄い。

 儒家は、外部からの強制をよしとしない。それは法家の発想である。それと同時に、無為自然をもよしとしない。それは老荘の発想である。儒家は、人間の本性に根ざしながら、それに基づく作動を他者と調和させ、学習して成長する道を求める。(16頁)

 まずは論語の立ち位置から。老荘との違いはそのままであるが、法家との違いに着目するべきであろう。法家が外在的な基準による強制を行なうのに対して、論語は内なる自然の基準に鑑みて柔軟に対応する。こうした基本的な立ち位置を踏まえて、著者が何度も主張する学習に関するキーコンセプトが提示される。

 何かにとらわれて、がんじがらめになって身動きがとれない状態が「罔」なわけである。
 そういうわけで、論語のいう「学」は、このような呪縛の契機を含んでいることがわかる。学ぶというのは、そういう危険な行為なのである。それゆえ、学んだことを、無反省に、一生懸命に復習したり練習したりすることを、孔子が勧めていたとは考えにくい。そもそもそれは、あまりやる気のしない行為であり、人間の本性に反する。(17頁)

 何かをインプットするという意味での「学」だけでは、私たちはインプットしたものに囚われてしまう。新しく得た知識は、自分自身の思考を拡げる可能性を持つとともに、それに囚われるリスクをも内包することに、私たちは自覚的であるべきだろう。こうした「学」の捉え方を踏まえた上で、有名な学而編の一節を著者は以下のように解釈する。

 先生が言われた。何かを学び、それがある時、自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではないか。(25頁)

 「学」をもとに「習」および「知」へと著者の解説は繋がっていく。こうした連関こそが、論語の真髄であろう。

 自分自身の変化を伴う解釈の過程は、「学習過程」だと言ってよいであろう。自分自身の既存の枠組みの中に外部から何かを取り込むことが「学」であり、それが自分自身のあり方に変化を及ぼして飛躍が生じる瞬間が「習」である。上の図式では、「知/不知」という分別の過程が「学」であり、それが自らに跳ね返って「知」が変貌する瞬間が「習」に相当している。(38頁)

 三者の往還関係のフィードバックループを回し続けること。こうしたフィードバックを修行のように苦しく回すのではなく、自然とたのしみながら回すことが、いいのだろう。ここから著者は他の論語の重要な概念を以下のように結びつける。

 私は、仁・忠・恕・道・義・和・礼という諸概念は相互に直接関係していると考えている。「仁」は学習過程が開かれていることであり、「忠」はそのときに達成されている自分自身の感覚への信頼を表現する。そのとき他者との関係性において自分自身のあるがままである状態が貫かれており、これを「心の如し」という意味で「恕」という。この状態にある人は、自らの進むべき「道」を見出し、そこを進むことができる。この道をたどっている状態で出遇う出来事において為すべきことが「義」である。「仁」の状態にある者同士の、調和のとれた相互作用が「和」であり、そのときに両者の間で交わされるメッセージのありかたを「礼」という。(111頁)

 簡潔にして明瞭な概念整理である。以上の七つの概念を総称して「論語の基礎概念系列」(111頁)と呼ぶことを著者は提唱する。こうしたことを実現できる人物が君子であり、君子とは以下のような人物であろう。

 自分を常にモニタリングして、人の言うことに耳を傾け、自分の間違いに気づいたら、直ちにそれを受け入れ、更に自分の行動を改める、これが孔子の追求する人間としてのあり方の根幹にある。(57頁)

 ここまでを踏まえて、今の私にとって個別具体的に感じ入ったのは以下の三点である。

 理不尽な攻撃に対してできるもっとも合理的な反撃は、恭しい態度で、誠実に、しかしきっぱりと、その攻撃の理不尽さを明らかにし、なぜそのようなことをするのか、理由を丁寧に尋ねることである。(114頁)

 どんなに言動や振る舞いに気を配っていても、他者から誤解を受け、理不尽と思える攻撃を受けることはある。そうした時に、反撃してしまうことはむろん良くないが、徒に謝るだけでも良くない。態度は恭しくしつつ、問題の所在と相手の対応について誠実にきっぱりとコミュニケーションを取ること。言うは易く行なうは難いことではあるが、心に留めておきたいことである。

 人間は、世界そのものを認識して思考しているのではなく、「名」によって世界の「像」を構成し、それによって思考しているからである。名と名との関係性を組み替えたり、あるいは名を与えられた像の運動を構成したりすることで、我々は思考し、行動している。それゆえ、名を歪めてしまうと、我々は自らの世界に生じる事態についての正しい像を構成できなくなってしまう。(137~138頁)

 ウィトゲンシュタインを引用しながら著者はこのように述べる。ここでのハイライトは、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で述べている点が、論語での最重要ポイントである学習回路を開くことに繋がっているということであろう。名を介してしか世界を認識できないという制約を踏まえた上で、自分たちの認識に制約があることに自覚的でありたいものである。

 学習停止という「悪」は、伝染性がある。誰かがそのような「悪」の状態でコミュニケーションをとれば、その相手の学習過程が破壊される。一人が複数の人を「悪」に陥れるなら、それは鼠算的に増える。逆に、君子が学習過程を守り抜けば、それは感化という形で、他者の学習回路を駆動させる。これもまた鼠算的に増加しうる。このような不安定なダイナミクスを持つがゆえに、ちょっとした条件の違いや、各人の勇気の違いにより、社会には「悪」が蔓延したり、「仁」が満ちたりする。本当に覚醒した仁者が現れたとき、「仁」の側が一気に有利になり、天下に憂いが消えるということも、不可能ではない。(185頁)

 悪にも伝染性があり、仁にも伝染性がある。そうであれば、仁に満ちた社会を創り出すために、どのような状況であっても、私は、仁であり時間を長く続けたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿