2015年1月24日土曜日

【第407回】『日本の雇用と中高年』(濱口桂一郎、筑摩書房、2014年)

 とりわけ機能分化が進む外資系のスタッフ部門においては、HRの知識であっても、自身が日常的に接しない知識については疎くなる。しかし、顧客たる社員から見れば、どのチームの人間であろうとHRはHRである。社員の方々からの自部門の管掌範囲外の質問に対して、正確かつ網羅的に回答できる必要はないだろう。しかし、せめて相手の質問を的確に理解し、基本的な回答をしながら、適切な担当者を紹介するくらいはプロフェッショナルとして最低限行なえるべきだろう。こうした想いのもとに、本書のような、私にとってやや疎い領域に関しても随時知識を更新するようにしている。(今回もまた、自戒を込めて)

 本書では、戦前から現在に至るまでの、日本企業における人事制度を取り巻く流れが描かれている。そうした全体的な文脈の中において、「中高年」社員が企業の中でどのように扱われてきたかが論じられる。その際には、欧米諸国の企業における「中高年」の取り扱いとの対比を用いながら説明がなされているため、日本企業での「当たり前」が実は「当たり前」でないことが分かる。むろん、どちらの制度が優れているという類いの話ではない。そうではなく、相対化することによって見えてくる本質を理解すること、他国のプラクティスから学ぶべきものは学ぶこと、が重要ではないか。

 一九六〇年代後半には、事態はまったく逆の方向に進んでいきます。一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への思想転換です。これをリードしたのは、経営の現場サイドでした。その背景にあったのは、急速な技術革新に対応するための大規模な配置転換です。労働側は失業を回避するために配置転換を受け入れるとともに、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、経営側はこれを受け入れていきました。日経連が理念としての職務給化を主張していたまさにその時に、企業人事の現場は職務給では配置転換が円滑に実施できないということを認識し始めていたのです。そして、この現場の声が日経連のスタンスを換えていくことになります。(46~47頁)

 現在においても根強く日本の企業人事のパラダイムとして残っているものが職能という考え方であろう。職能を中心にして、年功的な給与カーブ設計、使用者にとって裁量の余地の大きい配置転換、基礎教育も含めた人材育成、生活をケアする福利厚生制度、等が設計される。こうした職能パラダイムは日本企業で昔からあるものではないことに留意したい。戦後すぐの時点では、政府および日本企業は、両者の思惑が一致するかたちで、欧米的な職務給への転換を試みていたのである。しかし、その試みが、一九六〇年代後半時点における景気循環サイクルにおける短期的な不況に対応するために頓挫し、職能パラダイムが一気に主流になった。こうした職能への転換が、人事実務という現場から主張され、経営層や財界トップへと浸透したという点は着目するべきであろう。

 高度成長期には多くの業種でさらに頻繁に配置転換が行われるようになり、配転の効力を争う裁判も多く提起されるようになりました。そして、裁判例の大勢は、本来的な雇用契約の法理、すなわち労働者の職務は雇用契約で定まっているのだからそれを使用者側が変更するには契約を変更するか労働者本人の同意を要する、という法理を採用しませんでした。契約締結の際に包括的に合意しているという説明によって、労働者本人の同意を得ない配転を正当と認めてきたのです。つまり、日本の裁判所は、ジョブは雇用契約の本質的要素ではないと考えたわけです。(68~69頁)

 職能パラダイムは、高度経済成長期において若くて優秀な人材を、将来の管理職候補として幅広い業務を経験させるためにジョブローテーションを組むことで強化されたと言えよう。将来は管理職になれるという長期的な外的報酬と、景気拡大に伴う業容拡大によって手応えのある仕事が多いという短期的な内的報酬。両者が結びつくことによって、年功的な給与カーブに基づく若い時代の低賃金でも優秀な社員はリテインされた、と書くと言い過ぎであろうか。こうした定期的なジョブローテーションが機能するためには、厳格な職務給制度によって異動の度に給与が変更するのでは具合が良くない。小さな給与ダウンが大きなモラールダウンに繋がるからである。職務遂行能力という人間基点の評価項目を設けることで、異動によっても給与変動がないようにすることが、社員に不要な不満を生じさせることを避けられるのである。

 年齢とともに排出傾向の高まる日本型雇用システムの矛盾は、一九六〇年代から繰り返し繰り返し指摘され続けてきました。にもかかわらず、一九七〇年代後半以降はむしろ、日本型雇用システムを高く評価する議論が労働経済学の主流を占め、それがきちんと現実に向かい合うことを妨げてきたように見えます。小池和男氏は『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、一九九四年)で、「しばしば日本の報酬制度は、たんに「年功」、つまり金属や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた」としつつ、勤続二〇年を超えてもなお知的熟練は伸び続けるのだと主張し、それを形成するように日本の報酬制度は組み立てられていると述べています。つまり、とても合理的なしくみなのだ、と。(171~172頁)

 正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音なのではないでしょうか。その意味では四〇歳定年制論というのは、その本音を露骨に表出した議論だったのかも知れません。
 「職務遂行能力」にせよ、小池氏のいう「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできないのです。そして、リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているように思われます。(173~174頁)

 職能パラダイムでは、仕事ではなく人間に焦点が当てられる。職務遂行能力とは、本来は、自社において現在から将来において重要な「職務」を「遂行」するために必要な「能力」というような意味合いであろう。しかし、ここから「職務」のトーンが薄くなり、「能力」のトーンが濃くなったのが日本企業における人事実務の実情ではないか。こうなると、ある人材が一度向上させた能力が低下するということは考えづらくなり、現在の「職務」では使えない「能力」をも評価するということになってしまう。

 著者による小池氏への反論には概ね同意するが、私なりに補足するとしたらこうだ。知的熟練論は、本来は、現在および近い将来のビジネスに求められる職務に基づいた職務拡大と職務充実とを射程にしたものであり、単に仕事を幅広く経験すれば良いというものではない。若手社員は、学習カーブが右肩上がりであるために意識せずとも知的熟練が起きやすいが、一定の経験が過ぎた後は、個人が意識してキャリアやジョブをデザインしないと知的熟練は起きない。意識的なキャリアデザインやジョブデザインを試みることなく学習カーブが逓減傾向に陥った中高年社員は、変化の激しいビジネス環境下ではロー・パフォーマーになってしまう。

 こうした中高年のロー・パフォーマーが、企業の収益悪化によってリストラのリスクに晒されることは自明であろう。

 整理解雇自体に対する厳しい姿勢は、物事の反面でしかありません。裁判所は日本型来ようシステムを所与の前提として、整理解雇を一般の解雇よりも厳しく判断すべきとする一方で、解雇回避の努力を尽くした上でやむなく整理解雇をせざるを得ない場合に対しては、企業による被解雇者人選の自由をかなり認めています。(63頁)

 欧米ならば、まさに「恣意の入らない客観的基準」として中高年に有利なセニョリティ原則が用いられるわけですが、日本ではまったく逆なのですね。ここに、中高年問題の本質がよく現れているといえます。(64頁)

 リストラとは、整理解雇に伴って生じる事象であろう。日本における整理解雇の法理においては、四要件が判例をベースに形成されているために厳しく規制されていると一般的には思われている。しかし著者は、四要件が認められた後の整理解雇の対象者を選定する企業の権限に着目し、欧米のような客観的基準が求められず企業側に広い裁量が認められている点が問題の本質であると述べる。司法や立法における判断が現在のビジネスに合わなくなっていることは承知の上で、企業の人事実務に携わる身としても深く銘記したいポイントである。


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