昼食時に某同僚と話していて、私が歴史小説を最近読んでいることから、司馬、吉川、池波といった方々の小説の話で盛り上がった。その話の流れで「浅田次郎の歴史物は読んだことがなかったが、これはすごく良かった」と勧められた本書。私も著者の歴史小説を読んだことがなかったので興味を持った。
主人公は吉村貫一郎という、南部藩を脱藩して新選組に入った浪人である。つまり、物語の舞台は幕末である。新選組の一員ではあるのだが、世間的には有名でない人物であろうし、少なくとも私は知らなかった。本作は、吉村貫一郎の独白と、彼を取り巻く人物たち、たとえば新選組における同士や後輩、南部藩時代の教え子といった人々からの語りとが交互に展開される不思議な構成である。この構成によって、読者に主人公の魅力を訴えかけるレベルが高まっているように私には思える。
いくつか興味深いと感じた点を抜き書きしていく。
妙なやつなんだよ、吉村ってのは。剣術はたいしたものなんだが武張ったところがねえ。学問はあっても鼻にかけるわけじゃねえ。かと言って、立派なやつかというと、そうでもねえんだ。ほら、どこにだっているだろ。何だって一通りはできて、考えてみりゃてえしたものなんだが、どうもさほどてえしたものにゃ見えねえってやつ。(55頁)
同期として新選組に加入した人物による評である。印象に欠ける人物とも読み取れるが、他方でこうした存在こそが組織において重要なのではないか。少なくとも私には、一つの理想的な人物のあり方のように思える。
吉村先生は侍に憧れていたあたしらみんなの、憧れそのものだったからね。長い武士の世の中が続くうちに、侍の体にべたべたとまとわりついてきた嘘や飾りを、きれいに取っ払っちまえば、侍はああいう姿になるんです。(345頁)
こちらは吉村貫一郎の新選組における教え子による述懐である。南部藩の中でも恵まれた出自ではない下級武士である吉村であるからこそ、理想の武士の有り様を目指して文武両道で励んできたのである。そうであるからこそ、見てくればかりで本質がない当時の上級武士からは欠落してしまった武士の本分のようなものが吉村に見出されたのではないだろうか。
「何ができると言うほど、おまえは何もしていないじゃないか。生まれてきたからには、何かしらなすべきことがあるはずだ。何もしていないおまえは、ここで死んではならない」(388~389頁)
鳥羽伏見の戦いで劣勢に喘ぐ幕府側。その中で矢尽き刃折れて死を思い始める教え子に対して、吉村が叱咤するシーンである。死を徒に美化するのではなく、むしろ生を通じて自分自身や社会にとって善を為そうとする吉村の考え方は、美しい。自分自身の命を大事にできない状態にある方にこそ、読んでほしい場面である。
それが、武士ってやつさ。本音と建前がいつもちがう、侍って化物だよ。俺たちはみんな、武士道にたたられていたんだ。
ひとりひとりが、よせばいいのに尊皇攘夷の舞台に上がっちまった。そのこと自体が茶番なんだけどな。
で、それぞれが本音ってのをおくびにも出さず、建前だけの芝居をせにゃならなかった。朝起きてから夜寝るまで、何から何まで。(84頁)
吉村とは直接的な関係はないが、ある新選組の隊士が語るこのシーン。新選組を美化する方もあるだろうし、薩長を美化する方もいるだろう。しかし、後世に生きる私たちは、武士道や侍といったものを徒に美しいものとして奉ることは考えものではないだろうか。私にとっては、いろいろと考えさせられる部分である。
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