2015年1月11日日曜日

【第401回】『ハンナ・アーレント』(矢野久美子、中央公論新社、2014年)

 大学以来、哲学や社会学に類する書籍を好み、自由に読んできた。そのため、アーレントの名前を目にすることは多かった。明快な論理を展開する哲学者であるという印象を持っており、彼女の書籍を読もうと思ったこともある。しかし他方で、読むのには苦労するという評判を何度となく目にし、また実際に書籍を書店でパラパラと捲って難儀しそうだという感覚を持ち、ためらってきた。そこで発想を変えて、彼女の哲学の解説書であり、かつ彼女自身の半生を題材にした書籍であれば読めるだろうと思い直し、軽い気持ちで本書を読んでみた。2015年はハンナ・アーレントを苦労してでも読もうと思わせられるほど、彼女の魅力が詰まった一冊だった。

 以下からは、ナチ時代におけるユダヤ人、全体主義、考えること、という三つのテーマを取りあげたい。

 まず、ナチ時代におけるユダヤ人について。

 とりわけ亡命ユダヤ人は「われわれのパンを奪う」不審な外国人として、メディアや大衆による排外主義的な言動にもさらされた。(49頁)

 ナチ政権下におけるユダヤ人への排外的な許し難い出来事に対して、当時を知らない私たちはそうした暴挙にばかり意識が向く。その結果として、当時のユダヤ人の方々を慮る気持ちが湧き上がり、彼(女)らは亡命先でも同情や温かい眼差しを受けたのではないかと思いがちだ。少なくとも私はそうであった。しかし、考えてみれば当たり前であるが、当時の経済状況を鑑みれば、亡命先の国の経済も芳しくない。経済状況が優れない亡命先の社会においては、亡命してきた大量のユダヤ人の方々が、エイリアンとして排除されたという著者の指摘は、鋭く、重たい。

 慈善事業として資金援助はしても政治的に行動することを忌避し、反ユダヤ主義から避難してきたユダヤ人たちを同胞としては見なさなかった。彼らは、早い時期の知識人亡命者たちのことも「博士様、たかり屋様」と呼び、嫌悪感を隠さなかったが、激増するユダヤ人難民にたいしては、自分たちが同化してきた社会の反ユダヤ主義を高めるとして、厄介払いするような雰囲気もあったのである。(54頁)

 亡命先の国民と同様に、ヨーロッパの他国に従前から溶け込んでいたユダヤ社会における人々も、亡命してくる同胞に冷淡であったという点も驚きであると共に、理解できよう。自国(ドイツ)において政権から迫害され、亡命先における異国の国民からも、また亡命先における同胞からも厄介払いされる当時のユダヤ人亡命者たち。亡命者=温かい援助を他国で得られる方々、という図式を持ってしまうのは、大陸と陸続きでない島国に生きる私たちの思考様式の現れなのであろう。

 次に、全体主義について。彼女のあまりに有名な『全体主義の起原』を紐解きながら、著者は解説を試みている。

 アーレントはこれにたいして、「ひとたびすべてが<政治化>されてしまうと、もはやだれ一人として政治に関心をもたなくなる」と述べている。すべての人びとが全体的支配に巻き込まれ、総力戦を戦うとき、選択や決断や責任にたいする自覚が失われる。(96頁)
 全体的支配は人間の人格の徹底的破壊を実現する。自分がおこなったことと自分の身に降りかかることとの間には何も関係がない。すべての行為は無意味になる。(中略)アーレントはこうした事態を法的人格の抹殺と呼んだ。(112~113頁)

 全体主義の構図は、一つひとつの行為の連関が人々には認識できず、積極的に関与していなくてもシステムを生きながらえさせることにコミットしてしまうことである。したがって、一人ひとりの行為者に悪辣な意図は存在していない。このシステムの中での心理状況は、実験心理学の分野でお馴染みのミルグラム実験を想起すれば良いだろう。

 では、こうした全体主義がどのように構築されるのか。アーレントはイデオロギーとテロルがその本質であるとして述べる。とりわけ以下に引用する箇所は、歴史からの教訓として後世を生きる私たちが学ばなければならないものであろう。

 アーレントは、「新しい支配形式」である全体主義の本質を、「イデオロギー」と「テロル」に見いだした。イデオロギー的思考は、過去・現在・未来について全体的に世界を説明することを約束する。そしていっさいの経験を無視して、予測不可能で偶然性に満ちている人びとの行為の特質と無関係な説明体系をつくりだす。確実なものとして見なされる前提から出発し、完全な論理的一貫性に即して、事実を処理するのである。全体主義的な威嚇の手段であるテロルは、複数の人間たちがつむぎだす一切の人間関係を破壊し、人びとの自発的な行為を不可能にして人びとのあいだにある世界を消滅させる。そうしたなかで、自由な行為の空間を喪失した人間たちは孤立し原子化する。そしてイデオロギーが、そのような孤立した人間を必然的な論理体系のなかに組み込む。孤立した寄る辺のない人間にとって、すべてをその論理のなかで説明するイデオロギーが魅力を発するのである。(127~128頁)

 このように考えれば、全体主義が生み出すネガティヴな影響は加害者/被害者という安易な二分法で論じられないことが分かるだろう。全体主義を否定するということは、全体主義の代表例であるナチを断罪しさえすれば済む問題ではないのである。

 アーレントはナチの先例のない犯罪を刑死しているわけではけっしてないが、ナチを断罪してすむ問題でもないと考えていた。また、加害者だけなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレントは全体主義の決定的な特徴ととらえていた。アイヒマンの無思考性と悪の凡庸さという問題は、この裁判によってアーレントがはじめて痛感した問題であった。(188頁)

 最後に、考えることに関するアーレントの考察を見ていきたい。

 アーレントは別の論稿では「何もしないという可能性」、「不参加という可能性」という言葉を使っている。彼女は、こうした力のなさを認識するためには現実と直面するための「善き意志と善き信念」を必要とすると指摘し、絶望的な状況においては「自分の無能力を認めること」が強さと力を残すのだ、と語った。独裁体制下で公的参加を拒んだ人びとは、そうした体制を支持することを拒み、不参加・非協力を選んだのである。そしてこうした「無能力」を選ぶことができたのは、自己との対話である思考の能力を保持しえた人たちだけだった。(202~203頁)

 全体主義の中において何かに加担するのではなく、はっきりと不参加を表明すること。むろん、そうした状況下で不参加を表明するという困難な決断をするためには、思考を通じた自己対話が重要であるとアーレントはしている。ではなにを思考するべきなのか。

 「理論がどれほど抽象的に聞こえようと、議論がどれほど首尾一貫したものに見えようと、そうした言葉の背後には、われわれが言わなければならないことの意味が詰まった事件や物語がある」と彼女は言う。個々の事件や物語へと脱線し、多くの解釈が混在する「物語」よりも、理路整然とした論証のほうが理解しやすい、という知的先入見あるいは慣習のようなものがある。しかしそれだけでは人間の経験の意味を救い出すことはできない、と彼女は考えていた。(216頁)

 アーレントは、単に事実を積み重ねて論証を行なうのではなく、物語を紡ぎ出すことによって自分自身の経験を意味付けることが重要であるという。全体主義が提示する物語に対抗するためには、自分自身の経験から生み出した物語しかない。そのためにも思考し続けること。アーレントからのメッセージを私たちは重く受け止め、未来に活かしていきたいものである。


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