2015年10月31日土曜日

【第507回】『銀翼のイカロス』(池井戸潤、ダイヤモンド社、2014年)

 JALや民主党を思わせるようなモデルによって描かれる一大活劇。半沢の活躍はいつものことながら、巨大企業トップである中野渡のリーダーとしての有り様に、静かな感動をおぼえる一冊。

 報告書を差し出した内藤は、立ち上がり、深々と一礼して部屋を後にした。中野渡の返事を待つことも、余計な意見を差し挟むこともない。後にはただ、研ぎ澄まされたプライドと思念だけが生々しい気配を残すのみだ。(327頁)

 「物事の是非は、決断したときに決まるものではない」
 中野渡はいった。「評価が定まるのは、常に後になってからだ。もしかしたら、間違っているかも知れない。だからこそ、いま自分が正しいと信じる選択をしなければならないと私は思う。決して後悔しないために」(370頁)

2015年10月26日月曜日

【第506回】『ロスジェネの逆襲』(池井戸潤、ダイヤモンド社、2012年)

 半沢の熱さに感銘を受けた第三作。逆境を逆境と捉えず、目の前の人間に対して貢献しようとする誠実な態度こそが、半沢の強さであり、それが機会を自ら創り出すことに繋がったのではないだろうか。

 「オレにはオレのスタイルってものがある。長年の銀行員生活で大切に守ってきたやり方みたいなもんだ。人事のためにそれを変えることは、組織に屈したことになる。組織に屈した人間に、決して組織は変えられない。そういうもんじゃないのか」(172~173頁)

 「だけど、それと戦わなきゃならないときもある。長いものに巻かれてばかりじゃつまらんだろ。組織の論理、大いに結構じゃないか。プレッシャーのない仕事なんかない。仕事に限らず、なんでもそうだ。嵐もあれば日照りもある。それを乗り越える力があってこそ、仕事は成立する。世の中の矛盾や理不尽と戦え、森山。オレもそうしてきた」(213頁)

 「仕事は客のためにするもんだ。ひいては世の中のためにする。その大原則を忘れたとき、人は自分のためだけに仕事をするようになる。自分のためにした仕事は内向きで、卑屈で、身勝手な都合で醜く歪んでいく。そういう連中が増えれば、当然組織も腐っていく。組織が腐れば、世の中も腐る。わかるか?」(367頁)

2015年10月25日日曜日

【第505回】『オレたち花のバブル組』(池井戸潤、文藝春秋、2008年)

 「半沢直樹」シリーズ第二作。小気味の良いテンポで展開されるストーリーに魅了されながら、時に見え隠れする働く想いに感銘を受ける。

 「もしここで銀行から追い出されてみろ。オレたちは結局報われないままじゃないか。オレたちバブル入行組は団塊の世代の尻拭き世代じゃない。いまだ銀行にのさばって、旧Tだなんだと派閥意識丸出しの莫迦もいるんだぜ。そいつらをぎゃふんといわせてやろうぜ。オレたちの手で本当の銀行経営を取り戻すんだ。それがオレのいってる仕返しってやつよ」(中略)
 「いいか、バブル組の誰を役員室の椅子に座らせるか決めるのは奴らだ。団塊世代が気に入った人間をひっぱりあげる。それでいいのか。まさかお前、自分がみんなに好かれていると思っているわけでもあるまい?」
 「どう思われようと関係ないな」
 半沢はさらりとかわした。「自分の頭で考えて、正解と思うことを信じてやり抜くしかない」
 「その結果、とんでもないしっぺ返しを食らっても、か」
 「その組織を選んだのはオレたちだ」
 半沢がいうと、渡真利は舌打ちしてだまりこんだ。
 「それを撥ね返す力のない奴はこの組織で生き残れない。違うか、渡真利」(232~233頁)

 半沢と渡真利。腹蔵のない同期同士の会話の中には、どちらにも真実が溢れているように思える。世代、組織、個人の力量、信念、キャリア。様々なことを考えさせられる対話である。

 「もう一度いう。見たことも会ったこともない者を社長に据えるような再建計画なんかゴミだ。なんであんたがそんなバカでもやらないようなミスをしたか、教えてやろうか。それはな、客を見ていないからだ」
 福山は、はっとして顔を上げた。
 「あんたはいつも客に背を向けて組織のお偉いさんばかり見てる。そして、それに取り入り、気に入られることばかり考えてる。そんな人間が立てた再建計画など無意味なんだよ。なぜならそれは伊勢島ホテルのために本気で考えられたものじゃないからだ。あんたの計画は、身内にばかり都合よく出来ている。それで企業が再建できると思っているのなら、これはもう救いようのない大馬鹿者だ。反論があるなら聞かせてもらおうか、福山」(261~262頁)

 半沢の信念のありかが端的に現われているのではないか。上司や組織といった身内ではなく、客を基点に何ができるかを考えること。客とは、社外だけではなく社内にもいるものだ。そうした多様なステイクホルダーとしての客への貢献を第一に考えた上で、自分が何をすべきかを考えること。そうすることが、自分自身の信念に基づいた行動を支える礎となる。

 一人になって、もう一度自分の人生を考えるときがあるとすれば、それは今だと半沢は思った。
 人生は一度しかない。
 たとえどんな理由で組織に振り回されようと、人生は一度しかない。
 ふて腐れているだけ、時間の無駄だ。前を見よう。歩き出せ。
 どこかに解決策はあるはずだ。
 それを信じて進め。それが、人生だ。(361頁)

 取締役会での大和田との対決に勝ちながら、社内バランスの関係で意に添わない人事異動の内示を受けての半沢のモノローグ。転機に読みたい言葉だ。

2015年10月24日土曜日

【第504回】『オレたちバブル入行組』(池井戸潤、文藝春秋、2004年)

 いわゆる「半沢直樹」シリーズの一作目。数年前のドラマ版では、初回と最終回だけを観ることで感動を世間と共有することができた。飽きっぽい性格なのかドラマを毎週観ることはまずできないが、他方で、単純な性格なためにプロットが把握できれば最初と最後だけ観れば感動できる。

 テレビの時に感じたのは、企業を舞台にした勧善懲悪モノという印象であった。そうした印象は読後の今もあまり変らない。しかしそれに加えて、同期という存在のありがたさ、懲らしめられる側へのある種の共感、という二点が印象的であった。

 「夢を見続けるってのは、実は途轍もなく難しいことなんだよ。その難しさを知っている者だけが、夢を見続けることができる。そういうことなんじゃないのか」(316頁)

 半沢が、同期である渡真利に対して語る発言である。こうした熱い言葉を言い合える関係性というのは、通常の同僚や上司部下関係ではなかなか成立しないのではないか。しかし、同期という「同じ釜の飯を食った」間柄では、衒いもなく言える瞬間が時に訪れるように思う。そうした時に、私たちは、自分が今の状態で成し遂げたいこと、将来における夢といったものを、心の底から掬い取って言葉にできるのかもしれない。

 自分が大切にしていたプライドなど、いまやまったく意味もなく、根拠もない。こんなものを守ろうとあがいた挙げ句、抜けないほど深い泥沼に足を突っ込んでしまったではないか。情けなかった。そんな自分を呪いたくもなった。つまらないビデオを観たときのように、テープを巻き戻せるものならそうしたい。(231頁)

 半沢に懲らしめられる側である支店長のモノローグである。悪しきことを為す人にも理由がある。一つの失敗がさらに悪い結果を招き、どうしようもなくなった時に、それが自身の周囲の大切な存在にまで及んでしまうことを防ごうとして、組織や同僚に悪事を為す。悪とは相対的なものであり、二分法で善と悪とを切り分けて正義を振りかざすことの無意味さと危険性を考えさせられる。

2015年10月19日月曜日

【第503回】『明暗』(夏目漱石、青空文庫、1917年)

 漱石の絶筆として有名な本作。未完の作品を読むのは初めてであるが、その終わり方に新鮮な驚きをおぼえる。完結しないからこそ、読者は、先を想像することが自由にできる。「未完の大器」という言葉があるように、完成していないものに対して、私たちは魅せられるものなのかもしれない。

 彼の知識は豊富な代りに雑駁であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位置が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。(Kindle No. 817)

 主人公である津田の叔父の描写である。皮肉な表現の中に、現代を生きる私たちでも想像できるような人物像が見出せる。

「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻から云うんだ、実地を踏んで鍛え上げない人間は、木偶の坊と同じ事だって」(Kindle No. 7528)

 厭味な友人である小林が津田に対して述べる台詞。小憎らしい人物である小林ではあるが、不思議と憎みきれないような人物描写になっているところが漱石の為せるわざであろう。

 彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後をふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。(Kindle No. 7849)

 ハッとさせれる文章である。本書で最も印象的であり、考えさせられる部分であった。


2015年10月18日日曜日

【第502回】『人間失格』(太宰治、青空文庫、1948年)

 読み終えてすぐに就寝して、寝ている間から、何だか気持ちが落ち着かない感じが続いている。頭で考えるというよりは、日頃は向かい合うことがほとんどない、心の深奥に直接的にアクセスしているような、決して気持ちが良いとは形容できない感覚である。

 お笑いコンビ「ピース」のボケ担当であり芥川賞作家でもある又吉直樹さんがどこかの媒体で書いていたように、本作には、読み手が共感できる部分が多いのであろう。潜在的な人間の有り様に触れる何かがあるからこそ、記憶を整理整頓する睡眠時に、脈絡なく様々なことを考えたり感じたり気づかされたりするのではないだろうか。

 本書をはじめて読んだのは高二の夏である。あまりに退廃的な本書を読んだことをきっかけにして、当時の私は大学受験を決意したのだから面白い。自堕落にモラトリアムを生きていた当時の自分にとって、危機感をおぼえさせたとも頭では考えられるが、それ以上の何かが本書にはあるようだ。再読した今、そのように思える。

 互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。(Kindle No. 234)

 言い訳がましい言い方となるが、私は厭世的な人間ではない(と少なくとも自分では考えている)。むしろ人間や物事の多様な側面のうち、前向きなものを選択的に掬いとってそこに意味を見出そうとすることが多いタイプだ(と認識している)。そうした世界観を有する身でも、この部分にははっとさせられるし、人間社会の一つの側面として、あまり見たくないものがあるのではないかと首肯せざるを得ない。特に、「清く明るくほがらかな不信」というアンビバレントな表現に着目したい。

 自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。(Kindle No. 738)

 我が意を得たりと思わず膝を叩きたくなる。面倒であるという感情もあるが、むしろ問題が起きている複数の関係性が織り成す柵に対して、期せずして自身で最後の決定的な一打を加えてしまうことが怖いのである。臆病な精神が、為すべきを為さざることによって、結果的に自然に悪化する現象を傍観したいという気持ちは、世の中の決して少ない人が共有しているのであろうか。

 世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。(Kindle No. 1120)

 日本社会では「空気を読む」ことが処世術の一つとして必要だと言われる。学校や企業といった日本社会の縮図としての組織を鑑みると、「空気を読む」ことの必要性はたしかにあるだろう。しかし、「空気を読む」だけでは、自分自身が何かを新たに為そうとする、さらに言えば他者を巻き込んで何かを成し遂げようとすることはできない。そうした時には、世間という無形で強力な存在を相手にするのではなく、個人の集合として捉えて、個々の人々に対応すること。個人を相手にすれば、自分自身の意志を明確に意識して提示することもできる。本書においては、この引用箇所は決して前向きに捉えられる文脈には配置されていないが、意図的にこのように拡大解釈することも小説を読む一つの醍醐味ではないだろうか。

 実に、珍しい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。(Kindle No. 1601)

 どうも私という人間は、自分自身で考えて、独力で決断し、我が道を、時にわがままに、生きていくタイプと思われているようだ。ここまで書くと書きすぎであるかもしれない(と信じている)が、多分にそうした傾向はあるのだろう。それでも、上記の引用箇所にはいたく共感していることをここで断言しておきたい。


2015年10月17日土曜日

【第501回】『パンドラの匣』(太宰治、青空文庫、1946年)

 『火花』を読んでから、太宰を改めて読みたいと思っていた。面白いと思った小説の著者が影響を受けた著者の作品を読むというのはいいものだ。

 お父さんの居間のラジオの前に坐らされて、そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或いは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。(Kindle No. 129)

 太平洋戦争が終わる瞬間をどのように日本国民が迎えたのか。その受け止め方には、世代や立場によって様々であろうし、いたずらに普遍化しようとするつもりは毛頭ない。著者が、このような表現を取っていることに着目してみたい。

 ひとの行為にいちいち説明をつけるのが既に古い「思想」のあやまりではなかろうか。無理な説明は、しばしばウソのこじつけに終っている事が多い。理論の遊戯はもうたくさんだ。(Kindle No. 24)

 先の引用で「昔の僕」から変った結果として、「古い「思想」」に対する鋭い指摘が為されている。「理論の遊戯はもうたくさんだ」という気持ちを、当時の一部の人々は、心の底から思ったのではないだろうか、という推察をしてみたくなる。

 男児畢生危機一髪とやら。あたらしい男は、つねに危所に遊んで、そうして身軽く、くぐり抜け、すり抜けて飛んで行く。
 こうして考えてみると、秋もまた、わるくないようだ。少し肌寒くて、いい気持。(Kindle No. 1326)

 「古い「思想」」を否定してどのように生きるか。価値観の変容は、一直線に為されるものではなく、その過程において様々な要素が絡んでくるものだ。本書における主人公や彼を取り巻く人々にも様々な立場からの言動が見られる。そうした中で何となく心惹かれるのが、上記の引用箇所に見られる主人公の表現である。「危所」で「遊ぶ」という相反する文言が並置しているところが面白い。

 君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽なものだ。芭蕉がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲するも能わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。(Kindle No. 1843)

 さらにすすんで「かるみ」へと至る。戦後における時代思潮として挙げられている一方で、二十一世紀の現代においてもなんとなく共感できるのだから、甚だ興味深い。

2015年10月12日月曜日

【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)

 内発的動機づけについて丁寧に述べられた本作。修士時代の研究テーマとも関連するものであり、今回で読むのは実に四回目を数えるが、未だに新しい気づきを得られる。単に失念していただけの部分もある一方で、取り組んでいる課題に応じて学べるポイントが異なるということも言えよう。

 内発的動機づけとは、活動それ自体に完全に没頭している心理的な状態であって、(金を稼ぐとか絵を完成させるというような)何かの目的に到達することとは無関係なのである。(28頁)

 内発的動機づけを著者はこのように端的に定義づけた上で、自律と有能感という二つの要素から成り立つと述べる。まず自律から見ていく。

 ある行動が自律的だ、その人が偽りのない自分を生きていると言えるのは、その行動を開始して調整してゆくプロセスがその人の自己に統合されているときだけである。(5頁)

 結果ではなくプロセスが対象となっていること、加えて、そのプロセスを自身のあり様に合わせて自身で調整していることの二点が、自律的であるということの条件である。

 制限の設定は責任感を育てるうえでも非常に重要である。問題はそのやり方なのである。自律性を支えるしかたで制限を設けることによって、つまり相手を操作する対象、統制する対象と見なすことなく、制限される側の立場に立ち相手が主体的な存在であることを認めることによって、偽りのない自分であることを損なわずに責任感を育てることができる。(58頁)

 自律性の条件が自己に内在していることを考えると、自律性を他者によってサポートすることはできないように一見すると思える。しかし、著者はそうした考えを退け、他律的に他者に関与するのではなく、相手の主体性を前提に置いた上で関与することが大事であるとしている点に注目するべきであろう。

 有能感は、自分自身の考えで活動できるとき、それが最適の挑戦となるときにもたらされる。(89頁)

 第二の要素である有能感については、行動の背景にある考えや意志に自分が関与していることと、その内容が挑戦しがいがあり実行可能なものであること、という二点が挙げられている。企業における目標設定を考えれば、分かりやすいだろう。こうした点にも、内発的動機づけの基礎的な考え方は、本来、反映されているのである。

 では、こうした個人に根ざした内発的動機づけの概念が、他者や社会とどのように関わっているのか。

 人間の発達とは、生命体がより大きな一貫性を獲得していきながら、たえず自分自身と周囲の世界に対する内的な感覚を精緻化し、洗練するプロセスなのである。このように、われわれ一人ひとりにとって、自分はいったい何者なのかという問題の中心には、統合された自己という感覚を発達させようとする衝動があるのであり、こうした自然な発達の道すじにとってーー身体的にも精神的にもーー必要な活動が、内発的に動機づけられるのである。(108頁)

 自律と有能感とは、自分自身を主体に置きながら、環境との連続的な相互作用が求められる。こうして、自分自身に閉じることなく、謙虚に他者から影響を受け、また社会に貢献するという活動へと繋がることができる。他者や周囲に開いたフィードバックループを紡ぎ出す点が、内発的に動機づけられた行動の特徴なのである。

 こうした内発的動機づけにネガティヴな影響を与えるものとして、二点を取り上げておこう。

 心理学の用語に、自我関与(ego involvement)ということばがある。これは、自分に価値があると感じられるかどうかが、特定の結果に依存しているようなプロセスのことを指す。(中略)
 研究によれば、自我関与は内発的動機づけを低減するだけでなく、だれもが予想するように、学習や創造性を損ない、柔軟な思考や問題解決を必要とするあらゆる課題での作業成績を低下させる傾向がある。自我関与している人は融通がきかず、効果的な情報処理が妨げられ、問題に対する思考が浅く表面的なものになる。
 要するに、自我関与とは希薄な自己感覚のうえに構築されるものであり、自律的であることを妨げるように作用する。したがって、より自律的で自己決定的であるためいは、自我関与から距離をおかなければならない。あるいは、少しずつ自我関与を減らしていく必要がある。(160~162頁)

 一つめは自我関与である。特定の結果、通常は肯定的な結果が得られることを前提にしてプロセスに関与する自我関与は、私たちがよく陥りやすいものであろう。ある試合に勝つことだけを前提にしてそのプロセスにおける練習に取り組むことは、その結果が肯定的であれば良いが、否定的な帰結の場合にはその競技自体に対する興味を減衰しかねない。もしくは、終わった後に疲労感に襲われてやる気が起こらなくなるということもあるだろう。

 異常に強い外発的意欲は、偽りの自己の一側面として理解することができる。そうした意欲がそんなにも猛威をふるうのは、その目標を達成できるかどうかによって随伴的自尊感情が生じるからである。(183頁)

 自尊感情には、真の自尊感情と随伴的自尊感情という二つのものがある。真の自尊感情には「統合された価値や規範が伴っている」(165頁)のに対して、随伴的自尊感情は、ある物事の結果に左右する。したがって、結果がうまくいかない場合には、自尊感情を得ることはできない。

 ではどのようにすれば内発的に動機づけることが可能なのか。そのヒントとして、感情の統制を著者は最後に挙げている。

 感情を生起させる刺激の解釈を変えて感情を調節することは、感情を自己に統合し、また自律的になるために必要な二つのステップのうちの一つであり、その過程で、統制的な力を克服するための手段を手に入れることができる。もう一つは、感情が動機づける行動を、うまく調整するための柔軟性を得ることである。(260頁)

改めて、キャリアについて考える。

2015年10月11日日曜日

【第499回】『不動心』(松井秀喜、新潮社、2007年)

 僕は、生きる力とは、成功を続ける力ではなく、失敗や困難を乗り越える力だと考えます。(8頁)

 順境の中でパフォーマンスを発揮することに比べて、逆境の中でいかに結果を出すことの方が難しい。しかし、私たちの日常においては、順境とともに逆境もまた訪れるものである。これは誰にも訪れるものであるのだから、生きていく上でも、またプロフェッショナルとして他者に貢献するためにも、逆境をいかに生きるかが大事なのである。

<日本海のような広く深い心と
 白山のような強く動じない心
 僕の原点はここにあります>(10頁)

 松井秀喜ベースボールミュージアムに寄せた著者の言葉だそうだ。「広く深い心」と「強く動じない心」とから「不動心」が構成されると著者はする。ここに、著者の考え方が凝縮されているようだ。

 これまで星稜高校、巨人、そしてヤンキースでプレーしてきましたが、たとえ自分が活躍して試合に勝ったときも、自分の力で勝った、と思ったことはありません。本当に、そんなふうには考えないのです。ですから、この記者がいうように、自分の力でチームを強くしたい、などとは思いません。
 チームの勝利のために自分がすべきことを考えて打席に入ることが、結果として、自分の成績にもプラスに作用している。これがすべてです。(152頁)

 「強いチームばかりでプレイしてきたが、弱いチームでプレイしてチームを強くしてみたいか」という記者に対する上記の回答が秀逸だ。チームプレイに徹することで、自分のパフォーマンスの向上にも繋げる。チームの結果にもコミットして、自分の結果にもコミットする、ということには、当事者としての強い覚悟が伴う。企業で働くプロフェッショナルにも考えさせられる至言である。


2015年10月10日土曜日

【第498回】『白い巨塔(五)』(山崎豊子、新潮社、2002年)

 改めて読んでも感涙の最終巻。

 以上、愚見を申し上げ、癌の早期発見並びに進行癌の外科的治療の一石として役だたせて戴きたい。なお自ら癌治療の第一線にある者が、早期発見出来ず、手術不能の癌で死すことを恥じる。(401頁)

 財前が死に際して残していた病理解剖に関する意見書。死を以てしても癌に対する取り組みを追求しようとする姿勢と、自身に対する悔やむ気持ち。プロフェッショナルについて考えさせられる至言であり、彼の癌に対する対峙の姿勢と研究に対する真摯な意志が隠されていたことに最後に静かな感動をおぼえる。

2015年10月5日月曜日

【第497回】『白い巨塔(四)』(山崎豊子、新潮社、2002年)

 控訴審での勝利と学術会議選挙での当選という二兎を追う財前。あくの強さで押し切ろうとする姿勢には驚かされるばかりであると同時に、なぜか憎むような気持ちにはなれない。崇高な目的意識というものが弱いとしても、目の前の他者や目標に対して強い意志で取り組もうとする気持ちに、なにか惹かれるものがあるのかもしれない。

 しかし、そうした財前の強い気持ちに影が差し始めるのがこの四巻である。結論を知っているために穿って読んでしまう部分もあるのだが、以下の部分が印象的だ。

 森閑とした静けさの中で、財前はひどく疲れている自分を感じた。一体、何が自分をこう疲れさせるのだろうか。(449頁)

 悲劇的かつ感動的な最終巻のラストに向けた、終わりの始まりである。

2015年10月4日日曜日

【第496回】『白い巨塔(三)』(山崎豊子、新潮社、2002年)

 自分自身の研究に対するキャリアを棒に振ることのリスクに思い悩みながらも、原告の証人として出廷することを決意する里見。里見の悩みと決断に感銘を受けつつ、その反対に位置する財前の魅力がなぜか増すのだから、不思議だ。

「誤診とか、誤療とかということを前提にして解剖するのではありませんよ、噴門癌の手術をしてから三週間の間に、どういう経緯を辿って癌性肋膜炎を引き起したのか、それがどんな形で広がったか、死の直接の原因はなんであったかということを、医学的に解明するために行なわれるのです、そうすることによって遺族の方の気持に納得が行きましょうし、また学問的にも貴重な資料をもたらすことになるわけで、最初に佐々木康平さんを診察した私としても、今度の佐々木康平さんの死因が、どこにあったか、是非、知りたいところです、ですから、もし、解剖を承諾されるのでしたら、一刻も早い方がいいのです、時間の経つほど、せっかく解剖しても正しい資料が得られないことがありますからーー」(81~82頁)

 研究のためにというだけでもなく、患者のためにというだけでもない。両者それぞれにとって重要であるという想いから、遺体の解剖を諄々と諭すように説得する里見の姿勢には、感動すらおぼえる。

「兄さん、僕だって正直なところ、冷飯を食わないですむものなら、すましたいのです、いろんなことがあっても、ともかく大学では僕の望む研究が続けられます、しかし、今度のことはどうしても許せない、一人の医者の心の傲りから、死に至らずともすんだかもしれない患者の命が断たれたそのことだけでも許し難いのに、それを大学の名誉と権威を守るためという美名のもとに、真実を掩い隠そうとしている、僕はやはり、万一、自分の将来に不幸なことが起り得るとしても、勇気をもって事実を述べることにします」(256頁)

 自分の属する組織の人員を守ろうとすることは、組織にとっていわば自明のこととも言える。身内を守るということは、組織を尊重することとも受け止められるし、一人の相手と敵対することは、組織全体を敵に回すことにも繋がりかねない。まして、「白い巨塔」のような、封建的な組織であれば、なおさらである。こうした組織の中で、思い悩みながらも、組織と異なる見解を決然と述べようとする里見の心意気に、思わず襟を正される。

「君の云うように医学者にとって、学問と研究はかけがえのない大切なことだ、しかし、その学問よりさらに大切なものは、患者の生命だ、不条理な死に方をした患者のことを考えると、僕は学問的業績に埋もれた医学者であることにより、無名でも患者の生命を大切にする医者であることを選ぶ、それが医者というものだろうーー」(353~354頁)

 志とはなにか。何のために学び、仕事をするのか。職業とはなんなのか。生き様というと大きすぎるが、少なくとも職業観については考えさせられる。

2015年10月3日土曜日

【第495回】『白い巨塔(二)』(山崎豊子、新潮社、2002年)

 教授選が終わり、後の裁判へと繋がる外科手術へと至る第二巻。

 連日、教授選の工作に神経を磨り減らし、今また鵜飼医学部長から、場合によっては君を推したくとも、推せないと突き放され、今日まで自分のすべてを賭けて来たことが、不成功に終るかもしれない不安の中にたたされている自分と、そんなものと絶縁したところで静かに自分の研究を続けている里見との生き方の相違を、今さらのように感じた。(157頁)

 財前に感じる魅力は、完全無欠の人間であるかのような態度や言動を取る一方で、こうした弱い部分を併せ持つ人間らしさにあるのではないか。ふてぶてしいだけでは嫌みになるが、そこに弱さが加わると人間的魅力が生じるのであるから、おもしろい。

「じゃあ、術後肺炎を起しているんだろう、抗生物質で叩いてみろよ、僕はいささか酩酊気味だからな」(366頁)

 本書を最初に読んだ時から、このフレーズがなぜか記憶に残っている。財前の、およそプロフェッショナルとしての医師としてあるまじき台詞であるにも関わらず、である。一流の著者による言葉遣いの趣深さであろうか。