自分自身の研究に対するキャリアを棒に振ることのリスクに思い悩みながらも、原告の証人として出廷することを決意する里見。里見の悩みと決断に感銘を受けつつ、その反対に位置する財前の魅力がなぜか増すのだから、不思議だ。
「誤診とか、誤療とかということを前提にして解剖するのではありませんよ、噴門癌の手術をしてから三週間の間に、どういう経緯を辿って癌性肋膜炎を引き起したのか、それがどんな形で広がったか、死の直接の原因はなんであったかということを、医学的に解明するために行なわれるのです、そうすることによって遺族の方の気持に納得が行きましょうし、また学問的にも貴重な資料をもたらすことになるわけで、最初に佐々木康平さんを診察した私としても、今度の佐々木康平さんの死因が、どこにあったか、是非、知りたいところです、ですから、もし、解剖を承諾されるのでしたら、一刻も早い方がいいのです、時間の経つほど、せっかく解剖しても正しい資料が得られないことがありますからーー」(81~82頁)
研究のためにというだけでもなく、患者のためにというだけでもない。両者それぞれにとって重要であるという想いから、遺体の解剖を諄々と諭すように説得する里見の姿勢には、感動すらおぼえる。
「兄さん、僕だって正直なところ、冷飯を食わないですむものなら、すましたいのです、いろんなことがあっても、ともかく大学では僕の望む研究が続けられます、しかし、今度のことはどうしても許せない、一人の医者の心の傲りから、死に至らずともすんだかもしれない患者の命が断たれたそのことだけでも許し難いのに、それを大学の名誉と権威を守るためという美名のもとに、真実を掩い隠そうとしている、僕はやはり、万一、自分の将来に不幸なことが起り得るとしても、勇気をもって事実を述べることにします」(256頁)
自分の属する組織の人員を守ろうとすることは、組織にとっていわば自明のこととも言える。身内を守るということは、組織を尊重することとも受け止められるし、一人の相手と敵対することは、組織全体を敵に回すことにも繋がりかねない。まして、「白い巨塔」のような、封建的な組織であれば、なおさらである。こうした組織の中で、思い悩みながらも、組織と異なる見解を決然と述べようとする里見の心意気に、思わず襟を正される。
「君の云うように医学者にとって、学問と研究はかけがえのない大切なことだ、しかし、その学問よりさらに大切なものは、患者の生命だ、不条理な死に方をした患者のことを考えると、僕は学問的業績に埋もれた医学者であることにより、無名でも患者の生命を大切にする医者であることを選ぶ、それが医者というものだろうーー」(353~354頁)
志とはなにか。何のために学び、仕事をするのか。職業とはなんなのか。生き様というと大きすぎるが、少なくとも職業観については考えさせられる。
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