2016年7月31日日曜日

【第602回】『禅学入門』(鈴木大拙、講談社、2004年)

 著者の書籍は何冊も読んでいるが、タイトル通り、禅を初めて学ぶ、もしくは学び直すという意味合いでは、最適な入門書である。改めて気づく点が多々あり、心地よい学び直しのひと時となった。

 今禅には哲学無しと言い、すべての教義的権威を否定すると言い、すべてのいわゆる聖典なるものをつまらぬものと言う時に、それは禅がこの否定の行為のうちに何かまったく積極的な、また永久に肯定的な物を提示していることを忘れてはならぬ。(23~24頁)

 禅は何もかもをも否定する。その否定する様は「仏に逢えば仏を殺し」とした臨済の有り様からよく分かるだろう。否定というものは必ずしもネガティヴなものではなく、ポジティヴなものとして捉えるという逆転の発想で著者は捉えていることが興味深い。

 禅は唯一神教的でもなければ、万有神教的でもなく、すべてこうした名目を拒否するものである。従って禅には想を集中すべき対象がない。それは空に漂う雲である。(27頁)

 禅は、名付けること、つまり何かを概念化することを嫌う。概念化することによって、ある対象を解り切ったとすることを否定しているのである。つまり、物事の本質は名状不可能である考え、そのものをいかに捉えるかに焦点を当てる。ここで「焦点を当てる」と書いてしまったが、何かを目で見て同定するということではなく、周囲も含めた存在をありのままに感得するということであろう。だからこそ、空に有を感じ取るという一見するとパラドキシカルなことが書かれているのである。

 いかなる風にせよ、繰返しや真似は、禅の好まないところである。すなわちそれは殺すからである。同じ理由で禅は断じて説明をしない。ただ肯定するのみだ。人生は事実である。そしていかなる説明も不要である、肯綮に当たらぬ。説明することは証明することだ。そして吾々は活きることに何の弁明があろうか。活きるということ、ーーただそれだけで充分ではないか。(80頁)

 何かを名付けることを否定することは、人生そのものを肯定するからである。人生を寄り添い、誠実に生きること。禅は、シンプルな私たちの生き様を称揚する思想であり、否定から生まれる生の思想と呼べるものなのではないだろうか。


2016年7月30日土曜日

【第601回】『孫子に経営を読む』(伊丹敬之、日本経済新聞出版社、2014年)

 企業の戦略論で有名な著者が、孫子を紐解きながら経営戦略について解説を行う意欲的な一冊である。大家による解説はさすがであり、孫子との関連性に唸らさせられる。

 経営、戦略、戦い、スピードといったテーマがある中で、リーダーシップについて考えさせられるところが大きかった。リーダーシップという概念は、ビジョンを描き、周囲を巻き込むという意味合いが強い。しかし、孫子が述べるリーダーシップでは、視野が鍵概念として提示されている。

 視野狭窄になるからこそ、相手につけ込まれるポイントが視野の外にでてしまって、見えなくなるのである。とすると、現場の指揮官を視野狭窄に導いてしまう危険因子は他にないかを考えたくなる。たとえば、欲の深い人は、その欲に目がくらんで視野狭窄になりそうである。
 しかし、欲深の危険を考えると、孫子が廉潔でも視野狭窄になりやすいといっていることの深さが見えてくる。欲深の危険は、そこを敵につけ込まれようとつけ込まれまいと、危険因子である。(80~81頁)

 視野が狭くなることで、よくない結果を導くということは自明であろう。では、なぜ視野が狭くなってしまうのか、を考えることが大事である。孫子をもとに著者が述べているのは、欲深が原因であるとしているが、これも自明に思える。興味深いのは、欲深の理由として、清廉潔白という一見すると素晴らしいとされる性格を挙げている点であろう。つまりは、どのような内容であれ、固執しすぎてしまい、柔軟性に欠ける要素があれば、その善悪は問わず、欲深の原因となり、そこに視野が固定されてしまう。その結果として、周囲に目を向けることが難しくなり、視野狭窄を起こしてしまう。

 人間の長所のすぐ横に落とし穴が広がっている、あるいは短所が存在する、というのは、将に限らず、多くの事象で観察されることである。長所だと思うから、それを伸ばそうとする。それはそれでいいのだが、その行動の副作用に気がつかないのが人間の常なのである。(81頁)

 長所に焦点を当てるというのは、ドラッカーも述べていることであり、マネジメントの原則とも言える。もちろん現実のある側面を正しく描写しているのであろうが、その結果として生じる副作用を意識し、それをケアすること。自身が意識して行うことであるとともに、マネジャーが部下の強みとその周囲にある弱みを自覚することをサポートすることが重要であろう。


2016年7月24日日曜日

【第600回】『柔らかい個人主義の誕生』(山崎正和、中央公論社、1984年)

 1970年代の日本社会を論じた論考でありながら、現代の日本社会にも通ずる考え方が含まれていることに驚かされる。社会とは、非連続な変容もあるが、多くは漸進的な変化によって形成されるものであり、それ故に社会学の名著は現代でも読み継がれるのであろう。

 このやうに考へると、一九七〇年代以来のさまざまな社会変化の底には、ひかへめに見ても、新しい自我と未来の個人主義にとって、いくつかの希望の芽がのぞいてゐることは明らかだらう。そして、もちろん、その全体像はなほさだかではないとしても、それは少なくとも、十七世紀以来の、あの産業化時代の個人主義とまったく異質であることは、十分に予測することができる。結論からいへば、それは、青春の時代にたいする、成熟の時代の個人主義であり、目的志向と競争と硬直した信条の個人主義にたいする、より柔軟な美的な趣味と、開かれた自己表現の個人主義であることが推測されるのである。(60~61頁)

 ポスト産業社会とは成熟した社会であると著者は端的に述べる。本書でいう成熟とは「必ずしも自己を限定することの尽きるものではなく、むしろ、限定しきれない自己の曖昧さと複雑さとを受け入れること」(37頁)である。つまり、社会を構成する半ば相矛盾する多様な価値観が同居した状況において、自分自身を表現しながら開いた状態におくことが求められるとしている。そうした多様な価値観を受け容れながらも、自分自身を多様な可能性に開き、現時点での有り様を解放すること。二〇一〇年代に書かれた書籍であると錯覚してもおかしくないような鋭い社会分析である。

 こうした社会の有り様は、十九世紀におけるものとの比較で二十世紀以降のものを捉えるとよりわかりやすい。

 十九世紀の個人は、欲望の限度は知らずとも、少なくともその向けどころは知ってゐたが、二十世紀の個人は欲望の方向さへ見失って、いはば二重に不安になったのであった。彼は、何を手に入れるにしても外側に「理由」を必要とすることになり、その「理由」をあたへてくれる世間の評価を求めて、たえず他人の態度に注意しなければならない。環境は刻々に変わりつづけるから、彼はその「理由」を歴史の教訓に求めることはできず、いひかへれば、過去の教育によって形成された自分の内面に求めることはできない。(108頁)

 変化が緩やかで価値観が固定的な社会においては、過去の先例による判断根拠に従って行動すれば問題がない。しかし、変化が激しく多様な社会においては、一つひとつの自身の言動に理由を探す必要が生じ、それが正しかったのかどうかを他者によって評価される。しかも、評価する人間によって価値観が異なるのであるから、ある行動の是非の判断が分かれることもある。したがって、私たちは多様なフィードバックを求めるべく、常に行動しなければならないのである。これが、他者の目を気にする私たちの精神原理であり、様々なSNSで他者からの評価を気にする私たちの心理の背景にはこうしたものが存在するのであろう。自分自身の言動の正当性を他者から認めてもらいたいから、「いいね!」を押してもらわないと不安をおぼえるのである。

 こうした成熟社会においては、新しい形での社交が求められることになる。新しい社交の条件として、著者は二つのポイントを指摘している。

 現実的な条件についていへば、その最大のものは、先に見た生産現場の社会的変化であって、それ自体のなかで、目的志向集団よりも目的探究的な集団が優位を増してゐる、といふ事実である。(120頁)

 第一は、生産から消費へ、効率性からデザイン性へ、結果志向から過程志向へ、という移行である。つまり、目的自体を志向するのではなく、目的を探究するその過程に重きを置き、そうしたコミュニティの中に自分を位置付けることである。それがさらに、形のあるコミュニティからウェブ上のコミュニティへと移行しているのが、二十世紀から二十一世紀への移行を表していると解釈できるだろう。

 第二の条件は、現代の情報化社会がそれ自体の趨勢から多様化を進め、その結果、顔の見えない社会の画一的な情報の力がいちじるしく弱まった、といふことである。(中略)商品もまた、かつてのやうに圧倒的なヒットを見る例が少なくなって、先にも触れた通り、「多品種少量生産」といふのが時代の合言葉になりつつある。といふことは、ひとびとにとって一方的に強制される情報の比重が減り、その分だけ、顔の見える隣人との対話、すなはち、社交の生み出す情報の重味が増す、といふことを意味してゐるはずである。(121頁)

 ここでは、多様な関係性と、顔の見える関係性が指摘されている。一様な関係性ではなく多様な関係性ということは、自身でコミュニティへの参画が求められ、顔の見える関係性では高度なコミュニケーション能力が求められる。多様で顔の見える社交というと聞こえはいいものであるが、そこでは多様で高度な能力が求められる社会になっていることにも留意が必要であろう。


2016年7月23日土曜日

【第599回】『振り子の法則』(ヴァジム・ゼランド、須貝正浩訳、徳間書店、2006年)

 いわゆる自己啓発と呼ばれる書籍では、何か響くものが一つでもあると心地よい気分になる。それは、目新しい何かを見つけるというよりも、実感していても言語化しづらいものをシンプルに言い表してくれるものなのではないか。

 振り子の主な目的は、なるべく多くの信奉者を引き込み、彼らからエネルギーをもらうことにある。もしあなたが振り子を無視したら、振り子はあなたをそっとしておき、ほかの者に標的を切り替える。なぜなら、振り子は、自分のゲームを受け入れてくれる、つまり振り子の周波数で放射してくれる者によってゆれ動くからである。(98頁)

 本書を読んで興味深く感じたのは、振り子というアナロジーである。私たちは何かを信じたり、何かを強く批判したりする。この両極端の二つは表裏一体の関係にあり、振り子の法則に則った言動であると著者はする。つまり、一つのものに対して強くコミットすると、それに同調しない人や事象に対して反発心を覚える。何かにコミットすることは、何かからディタッチすることなのである。そして、特定のものにコミットすることでコミットの質と量が増していき、それに反するものへの反発心もまた強くなり続ける。

 振り子は、こうした人々のエネルギーを吸い取る対象であり、エネルギーをもとに大きくなり続けるという。その最たる例が、戦争、紛争、テロリズムといったものであることは想像に難くない。振り子の法則に基づく負の連鎖をどのように止めることができるのか。それは必ずしも容易なことではないが、著者はヒントを示している。

 振り子を穏やかに沈静化するための興味深い方法がもう一つある。誰かがあなたをいらだたせているとしよう。つまり、あなたにとって問題となっている。そんな時、その人に何が不足しているんのか、その人が何を求めているのか、突き止めてみるというのがその方法だ。では、ここで、何かが不足している人をイメージしてみよう。それは、ひょっとすると、健康、自信、心の平穏かも知れない。考えてみるまでもなく、この三つは自分が満たされていると感じるために必要な基本的な要素である。あなたをいらだたせている人が、その瞬間、本当は何を必要としているのかを考えてみよう。(107頁)

 発想の起点を、自分自身から他者に置くこと。そうすると、自分自身の苛立ちの感情ではなく、他者のニーズに意識が向くことになる。他者の視点に立とうとすることで、自身を俯瞰してみることができて落ち着くことができ、他者のニーズにどのように貢献できるのかという発想につながる。そうすると、もともと、自分自身が苛立っていたものは、自分自身が作り出した振り子の法則によるものであったと気づくきっかけになるのではないだろうか。


2016年7月18日月曜日

【第598回】『無常と偶然』(野内良三、中央公論新社、2012年)

 偶然とは何か。異なる文化との相違を足がかりにして、日本における偶然という概念を丁寧に論じる著者の一連の著作は興味深い。本作では、ヨーロッパにおける必然性と対比しながら、日本における偶然性が論じられている。

 人間は縁起の連関にただ翻弄されるだけではない。「縁」に働きかけることも可能なのだ。(96頁)

 縁とは、規定的に決まっているものではなく、私たちは縁起に受動的に対応するだけの存在ではない、と著者はしている。そうではなく、私たちが縁に対して働きかけることも可能なのだ。

 縁起観は偶然を許容する概念装置ということになる。偶然と必然が絡み合いながら、物事は運んでいく。必然だけでは物事は説明できない。偶然も大いに商量する必要がある。こんなふうに考えると、縁起は「しなやかな」論理を提起していることが分かる。縁起は西洋的な必然主義ではなくて、偶然を認めるしなやかなスタンスである。(97頁)

 縁に働きかけるというスタンスは、ゼロから何かを創り出すというものではない。私たちに働きかけてくる、否定しようのない縁に対して、それを受け容れながらも、こちらからも働きかけること。その有り様について、もう少し引用しながら見ていこう。

 縁起観は多義的な偶然に大きく開かれている。偶然に期待し、偶然を待ち構える。そして、自分にとって好ましい偶然なら積極的に受け容れる。偶然を積極的に受け容れる縁起観はプラグマティックだ。外から来る他者(偶然)を是々非々で受け容れるスタンスだ。「他者の措定」は新しい世界へ回路を通じる。新しい世界へ窓を開く。「他者」によって「自己」を知ろうとすることである。従来の消極的=否定的な縁起観ではなくて、この積極的=肯定的な縁起観を「容」偶然主義と呼ぶことにしよう。(97~98頁)

 縁じたいは既に起こった事実であり、それをなかったこととして否定することはできない。そうであれば、それをどのように解釈するかが重要になってくる。そして、縁を必ずしも徒らに肯定することを著者は述べているのではないことに着目したい。どのような縁であっても受け容れ、他者に対して自らを開き、オープンマインドによって、縁をきっかけにして自分自身を知ろうとする努力をすること。現在の自分に囚われず、起こった事実を解釈することで、自分自身の新たな可能性に気付くことができる機会が訪れることが時にあるものだ。では、どのようにすれば自らに囚われずオープンであることができるのか。

 好意的な偶然を呼び込むにはどうしたらいいのか。
 偶然は「今・ここ」での生起である。偶然は同時原因のたまものである。偶然としての他者は多義的である。多義的な偶然をしっかりと読み取らなければならない。そのためにはどうすればいいのか。日々の一瞬一瞬を完全燃焼的に生きることだ。好意的な偶然を感じ取る鋭敏なアンテナを張り巡らしながら。自分の夢、理想、願望を抱きつつ待つ。ただひたすら待つ。しかしながら、<我>という固い殻(壁)を取り払って、他者という偶然をあたうかぎり受け容れることである。(98頁)

 自身に内在する多様な可能性に対する気づきが鍵である。そうした多様なものへ気づく契機として偶然が作用する。日常的に自らを多様な可能性に対して開いておくことで、偶然に訪れる事象から気づきを得ることが時に可能となる。そこに、必然とは異なる偶然に対するオープンな態様が描き出されるのである。

 外から来る他者(偶然)を是々非々で受け容れるしなやかなスタンスーーこれが「容」偶然主義である。「容」偶然主義においては多義的な偶然をどう読み解くかが鍵になる。(99頁)

 偶然は、外から生じるものである。しかし、それをどのように受け容れるかは自分次第である。受け容れられる容量をいかに大きく保つことができるか。私たちにとって、そうした度量の大きさが、偶然を自分のものとして受け容れて、多様な可能性へと気づかせるきっかけとなるのである。

2016年7月17日日曜日

【第597回】『国家と犠牲』(高橋哲哉、日本放送出版協会、2005年)

 哲学書を読んでいると、言葉というものの重要性に気付かされる。自分が使う言葉に自覚的でありたいし、その原義を意識した上で紡いでいくことが大事だと思わさせられる。

 戦死者を「国のために」死んだ「尊い犠牲」として「敬意と感謝」の対象にすることは、国家のための死を褒めたたえ、美化し、顕彰すること、そして正当化することになる、と言いました。しかしこのような機能は、「犠牲」という観念のもともとの意味にすでに含まれているとも言えます。(19頁)

 犠牲という言葉には、何か美的でポジティヴなイメージが内包されている。この言葉を否定的に捉えることは難しいのではないか。だからこそ、国家は、犠牲という概念を用いることで、ある事象を意図的にポジティヴなものであるかのように印象操作をすることが可能となる。

 「靖国」の論理は、過去・現在・未来にわたって、兵士や軍人の「犠牲」に関するものでした。国家権力が発動した戦争で国家の軍隊の一員として戦死した人々を「尊い犠牲」として顕彰する、そして国家のために(「大日本帝国」においては国家=天皇のために)生命を投げだしてもかまわないとする「自己犠牲」の精神を「国民精神」として称揚する、そういう論理が「靖国」の論理にほかならないということでした。(52頁)

 近代国民国家における「国語」教育は、識字率をあげて、産業を発展させて市場競争に勝ち、戦争を遂行する戦力を確保するためのものであった、と書いても過言ではないだろう。そのためには、国家が行う戦争における死者について、本来は悲しいはずの戦死という事象を、美しいものに変えるために犠牲という概念が使われる。そうした犠牲者を公的に国家として悼む施設として、靖国の論理が築き出されたのである。

 戦死者の「顕彰」とは、戦死を「尊い犠牲」として褒めたたえ、聖化=聖別し、そのことによって戦争の凄惨な実態を覆い隠し、人々の意識から抹消しようとすることです。「顕彰」の意味での「英霊祭祀」は、戦死者を「永遠に記憶にとどめよう」とするように見えながら、実は同時に、その戦死の歴史的実態を「記憶から抹消」しようとするものなのです。そしてこの論理は、今後、自衛隊ないし常備軍の海外派兵や武力行使を正当化するものとして、さらに国民全体を「戦争」協力へと動員していくものとして機能し始めている、ということでした。(52頁)

 一人ひとりの個別的な悲惨な死を、国民全体としての美しい死へと変換すること。このような恐ろしい意味合いを内包していると考えると、国家による犠牲の聖別に疑いの目を向ける必要があることに気づかされるのではないだろうか。


2016年7月16日土曜日

【第596回】『歴史/修正主義』(高橋哲哉、岩波書店、2001年)

 小泉元首相の靖国参拝時に刺激的な論考を発表していた著者による歴史および修正主義に関する書である。久々に読むと、改めて興味深い。

 複数の異なる物語が対立・抗争の関係にある場合、ある物語を採って別の物語を斥けようとするならば、当然ながら、「歴史は物語である」というだけでは済まず、物語の具体的内容に入って、それが、どのように、「排除と選別の暴力」を行使しているかを明らかにする必要がある。そして同時に、「排除と選別の暴力」を批判する「政治的」ないし「倫理的」な判断にコミットする必要がある。(48頁)

 国民国家を想像の共同体であると喝破し、その構成要素として物語性を挙げたベネディクト・アンダーソンを彷彿とさせる。物語を創りあげる過程で、他の物語との正当性を争うために具体的な証拠を求めることとなる。その結果、他の物語を排除でき、客観的に正当性があるかのような証拠らしきものが集められる。しかし、歴史において完全に価値中立的で客観的なものは存在し得ないものであるため、終わりなき信念対立を招いてしまうのである。日本と近隣のアジア諸国との歴史認識における対立を思い浮かべれば、わかりやすいだろう。

 「物語の哲学」は、「物語りえぬものについては沈黙せねばならない」と断言するものであった。この言語行為は、「遂行論」的には、「物語」になろうとしてなりきれないトラウマ的記憶に、「沈黙」を要求するものとなるほかはないだろう。(中略)「物語りえぬもの」についても、沈黙する必要などない。「物語」に達しないつぶやきも、叫びも、ざわめきも、その他のさまざまな声も、沈黙さえもが「歴史の肉体」の一部である。(73頁)

 物語とまで成り立たなくとも、声を上げることは大事なアクションである。著者からのエールとも呼べる温かみのある言葉を、傾聴したいものだ。


2016年7月10日日曜日

【第595回】『高校生の勉強法』(池谷裕二、ナガセ、2002年)

 脳科学者による勉強法に関する書籍。効率的に学ぶという側面もゼロではないが、たのしみながらいかに学びを深めるかということが書かれた良書である。中学生や高校生を持つ親に読んでほしい一冊だ。

 記憶するという行為には、いくつかの種類があり、それぞれに適した年齢や方法が存在する。したがって、あるタイミングまで通用した学習法が、年齢が上がるとともに通用しなくなるということがある。つまり、人間の記憶のメカニズムを理解することによって、ある状況において適した学習の方法に調整し、学習をたのしいものにすることが可能となるのである。

 学習とは「ものごとの関連に気づくこと」だと言えますね。今まで独立していた事象が、頭の中でつながることが学習の正体なのです。(94頁)

 今学んでいるものが既存の知識と何らかの形で関連を持つことに気づくことは知的な喜びである。そして、それが学習することの意味の大きな一つを占めるという著者の指摘は納得的である。加えて、このように解釈すれば、学習というものの持つ苦しいものというイメージを覆すことが可能なのではないだろうか。


2016年7月9日土曜日

【第594回】『関わりあう職場のマネジメント【2回目】』(鈴木竜太、有斐閣、2013年)

 本書のような良質な学術書を読むと、インプットとして概念を整理できるので心地よい気持ちになる。しかしそれと同時に、自分自身のアウトプットとのギャップを感じて落胆する気持ちもある。アンビバレントな感情を持つのもたまにはいいものだ、とここでは肯定的に捉えてみよう。

 本書の論旨は明快であり、タマノイ酢の事例と公共哲学の知見から「関わりあう職場が支援と勤勉と創意工夫を職場のメンバーに促す」(2頁)という基本仮説を構築し、探索的アプローチで実証研究を行ってそれを結論づけている。「支援」「勤勉」「創意工夫」という三つの概念は、ともするとお互いに反比例関係を持つものと思われるが、決してそうではなく、職場における関わり合いがそれぞれに良い影響を与えることを示していることが重要な点であろう。

 それと同時に、三つの概念がバランス良くあることが重要であり、どれかが特筆して高くなることは不健全な状況に陥る可能性があることには注意したい。著者は、それを逆転共生というキーワードで端的に示している。

 逆転共生という考え方を踏まえれば、自律的に創意工夫する行動と助けあい秩序を維持するような行動は、一定以上の強さまではこのように相互に強化しあう関係であるが、一定以上になると(調査からは明らかにはされなかったが)相互に打ち消しあう逆転共生の関係になると考えられる。(215頁)

 調査では必ずしも明らかにならなかったにも関わらず、ここまで主張される点に私たちは傾聴するべきだろう。というのも、実務的には極めて納得的な内容であるからだ。たとえば、助けあいを過剰に重んじる組織では、ある個人が行う自律的・自主的な行動を「出る杭」として否定する風土に転じかねない。こうなってしまうと、助けあいが強すぎることで、自律的な創意工夫が阻害されるという現象になってしまう。

 こうした逆転共生を前提に考えた場合、どのようにバランスを考えれば良いのか。ここで興味深いのは、助けあいを構成する概念である仕事の相互依存性と目標の相互依存性が主観的なものを前提にしていることである。したがって、マネジャーは「関わりあいの強さを職場のメンバーのそれぞれに意識させることも有効なマネジメントである」(222頁)ことを留意することが大事になるだろう。

 関わりあう職場を構築していくためにマネジャーの担う役割は大きい。しかし、多忙を極めるマネジャーにその責任を押し付けることは酷であるし、現実的ではない。マネジャーも含めた職場全体で自律的にケアすることが求められるし、そうした職場を醸成することをHRが支援することが求められるのではないか。企業組織にとっての可能性が提示される書であるとともに、襟を正させられる書でもあった。


2016年7月3日日曜日

【第593回】『禅と日本文化【2回目】』(鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1940年)

 著者の本を読むたびに、学問の意義について考えさせられる。複雑な事象を抽象化することが学問であり、そうして得られた学問的知見を具象化することで困難な現実に適用する。こうした作用が重要であると信じているのであるが、禅という考え方にその自明性を疑わせられる。

 真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。(7頁)

 抽象化された真理に対する疑念を持つ禅では、その代わりに体験が重視される。あまりに体験を重視する姿勢では、自分自身が体験・経験していないものに対して何も言えなくなってしまい逆効果であろう。しかし、頭で学んだ知識や知見によって何もかも言おうとするのではなく、体験することで得られた何かを述べるという節度を保った姿勢というものは大事なのではないか。

 日本人の芸術的天才が個々の事物をそれ自体で完全なるものとみると同時に、「一」に属する「多」の性質を体現するものとみる禅の方法に触発されたからだといった方がさらにもっともな説明ではないか。(20頁)

 いわゆる「多即一、一即多」という禅の考え方を説明している箇所である。多様なものの中に真実なる一つのものを見出すと共に、その一つの背景にある多様な可能性をも同時に視野に入れる。この多の視点と一の視点とを往還することが禅の姿勢なのである。

 一芸の熟達に必要なあらゆる実際的な技術や方法論的詳細の底には、自分のいわゆる「宇宙的無意識」に直接到達するある直覚が存し、各種芸術に属するこれらの諸直覚はすべてみな、個々無関連な、相互に無関係なものと見なすべきものではなく、一つの根本的な直覚から生ずるものと、見なすべきものだということである。(147頁)

 熟達に関しても「多即一、一即多」は成り立つ。一つのものを極めるということは、他のものへの熟達にも活きる。極めるというプロセスは、一つのものに対してだけではなく、他のものへも適用できることがある。多くのものを追いかけるという姿勢ではなく、一つのものにコミットして極めることの重要性に改めて気付かされた。


2016年7月2日土曜日

【第592回】『道草』(夏目漱石、青空文庫、1915年)

 漱石による長編作品は全て読んでいると思い込んでいたところ、先日の「100年目に出会う 夏目漱石」展でうっかりと読み飛ばしていたことに気づいた本作。養子に出されながら、養父の女性問題に伴う養父母の離婚が原因で生家に戻るあたりが、私小説風にも取れる。煮え切らない主人公夫妻の言動は、読んでいて苛立ちを感じる場面も多いものだが、人間の心の葛藤とは、割り切れない、しかし永続的に存在する何かなのかもしれない。

「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
 (中略)
 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息で斃れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位置が手に入るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他島田の事も御常の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。(Kindle No. 3427)

 退廃的な言動とも読める。しかし、現実を生きるとは、一つの事象の背景にある多様な出来事の一つひとつを多様に解釈することではないか。自分にとって絶対的な意味づけを行うことと、それをオープンな状態にして他者からの忌憚のないフィードバックループを設計することが大事なのではないだろうか。

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」(Kindle No. 4278)

 そう、自分にとって悪いと判断しやすいものは、形を変えて何度となく訪れるものだ。このように考えると、縁起という言葉の意味を噛み締められるように思えるが、いかがだろうか。