著者の書籍は何冊も読んでいるが、タイトル通り、禅を初めて学ぶ、もしくは学び直すという意味合いでは、最適な入門書である。改めて気づく点が多々あり、心地よい学び直しのひと時となった。
今禅には哲学無しと言い、すべての教義的権威を否定すると言い、すべてのいわゆる聖典なるものをつまらぬものと言う時に、それは禅がこの否定の行為のうちに何かまったく積極的な、また永久に肯定的な物を提示していることを忘れてはならぬ。(23~24頁)
禅は何もかもをも否定する。その否定する様は「仏に逢えば仏を殺し」とした臨済の有り様からよく分かるだろう。否定というものは必ずしもネガティヴなものではなく、ポジティヴなものとして捉えるという逆転の発想で著者は捉えていることが興味深い。
禅は唯一神教的でもなければ、万有神教的でもなく、すべてこうした名目を拒否するものである。従って禅には想を集中すべき対象がない。それは空に漂う雲である。(27頁)
禅は、名付けること、つまり何かを概念化することを嫌う。概念化することによって、ある対象を解り切ったとすることを否定しているのである。つまり、物事の本質は名状不可能である考え、そのものをいかに捉えるかに焦点を当てる。ここで「焦点を当てる」と書いてしまったが、何かを目で見て同定するということではなく、周囲も含めた存在をありのままに感得するということであろう。だからこそ、空に有を感じ取るという一見するとパラドキシカルなことが書かれているのである。
いかなる風にせよ、繰返しや真似は、禅の好まないところである。すなわちそれは殺すからである。同じ理由で禅は断じて説明をしない。ただ肯定するのみだ。人生は事実である。そしていかなる説明も不要である、肯綮に当たらぬ。説明することは証明することだ。そして吾々は活きることに何の弁明があろうか。活きるということ、ーーただそれだけで充分ではないか。(80頁)
何かを名付けることを否定することは、人生そのものを肯定するからである。人生を寄り添い、誠実に生きること。禅は、シンプルな私たちの生き様を称揚する思想であり、否定から生まれる生の思想と呼べるものなのではないだろうか。
【第491回】『日本的霊性』(鈴木大拙、岩波書店、1972年)
【第492回】『禅と日本文化』(鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1940年)
【第493回】『新版 禅とは何か』(鈴木大拙、角川書店、1954年)
【第492回】『禅と日本文化』(鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1940年)
【第493回】『新版 禅とは何か』(鈴木大拙、角川書店、1954年)