2016年7月17日日曜日

【第597回】『国家と犠牲』(高橋哲哉、日本放送出版協会、2005年)

 哲学書を読んでいると、言葉というものの重要性に気付かされる。自分が使う言葉に自覚的でありたいし、その原義を意識した上で紡いでいくことが大事だと思わさせられる。

 戦死者を「国のために」死んだ「尊い犠牲」として「敬意と感謝」の対象にすることは、国家のための死を褒めたたえ、美化し、顕彰すること、そして正当化することになる、と言いました。しかしこのような機能は、「犠牲」という観念のもともとの意味にすでに含まれているとも言えます。(19頁)

 犠牲という言葉には、何か美的でポジティヴなイメージが内包されている。この言葉を否定的に捉えることは難しいのではないか。だからこそ、国家は、犠牲という概念を用いることで、ある事象を意図的にポジティヴなものであるかのように印象操作をすることが可能となる。

 「靖国」の論理は、過去・現在・未来にわたって、兵士や軍人の「犠牲」に関するものでした。国家権力が発動した戦争で国家の軍隊の一員として戦死した人々を「尊い犠牲」として顕彰する、そして国家のために(「大日本帝国」においては国家=天皇のために)生命を投げだしてもかまわないとする「自己犠牲」の精神を「国民精神」として称揚する、そういう論理が「靖国」の論理にほかならないということでした。(52頁)

 近代国民国家における「国語」教育は、識字率をあげて、産業を発展させて市場競争に勝ち、戦争を遂行する戦力を確保するためのものであった、と書いても過言ではないだろう。そのためには、国家が行う戦争における死者について、本来は悲しいはずの戦死という事象を、美しいものに変えるために犠牲という概念が使われる。そうした犠牲者を公的に国家として悼む施設として、靖国の論理が築き出されたのである。

 戦死者の「顕彰」とは、戦死を「尊い犠牲」として褒めたたえ、聖化=聖別し、そのことによって戦争の凄惨な実態を覆い隠し、人々の意識から抹消しようとすることです。「顕彰」の意味での「英霊祭祀」は、戦死者を「永遠に記憶にとどめよう」とするように見えながら、実は同時に、その戦死の歴史的実態を「記憶から抹消」しようとするものなのです。そしてこの論理は、今後、自衛隊ないし常備軍の海外派兵や武力行使を正当化するものとして、さらに国民全体を「戦争」協力へと動員していくものとして機能し始めている、ということでした。(52頁)

 一人ひとりの個別的な悲惨な死を、国民全体としての美しい死へと変換すること。このような恐ろしい意味合いを内包していると考えると、国家による犠牲の聖別に疑いの目を向ける必要があることに気づかされるのではないだろうか。


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