2016年7月24日日曜日

【第600回】『柔らかい個人主義の誕生』(山崎正和、中央公論社、1984年)

 1970年代の日本社会を論じた論考でありながら、現代の日本社会にも通ずる考え方が含まれていることに驚かされる。社会とは、非連続な変容もあるが、多くは漸進的な変化によって形成されるものであり、それ故に社会学の名著は現代でも読み継がれるのであろう。

 このやうに考へると、一九七〇年代以来のさまざまな社会変化の底には、ひかへめに見ても、新しい自我と未来の個人主義にとって、いくつかの希望の芽がのぞいてゐることは明らかだらう。そして、もちろん、その全体像はなほさだかではないとしても、それは少なくとも、十七世紀以来の、あの産業化時代の個人主義とまったく異質であることは、十分に予測することができる。結論からいへば、それは、青春の時代にたいする、成熟の時代の個人主義であり、目的志向と競争と硬直した信条の個人主義にたいする、より柔軟な美的な趣味と、開かれた自己表現の個人主義であることが推測されるのである。(60~61頁)

 ポスト産業社会とは成熟した社会であると著者は端的に述べる。本書でいう成熟とは「必ずしも自己を限定することの尽きるものではなく、むしろ、限定しきれない自己の曖昧さと複雑さとを受け入れること」(37頁)である。つまり、社会を構成する半ば相矛盾する多様な価値観が同居した状況において、自分自身を表現しながら開いた状態におくことが求められるとしている。そうした多様な価値観を受け容れながらも、自分自身を多様な可能性に開き、現時点での有り様を解放すること。二〇一〇年代に書かれた書籍であると錯覚してもおかしくないような鋭い社会分析である。

 こうした社会の有り様は、十九世紀におけるものとの比較で二十世紀以降のものを捉えるとよりわかりやすい。

 十九世紀の個人は、欲望の限度は知らずとも、少なくともその向けどころは知ってゐたが、二十世紀の個人は欲望の方向さへ見失って、いはば二重に不安になったのであった。彼は、何を手に入れるにしても外側に「理由」を必要とすることになり、その「理由」をあたへてくれる世間の評価を求めて、たえず他人の態度に注意しなければならない。環境は刻々に変わりつづけるから、彼はその「理由」を歴史の教訓に求めることはできず、いひかへれば、過去の教育によって形成された自分の内面に求めることはできない。(108頁)

 変化が緩やかで価値観が固定的な社会においては、過去の先例による判断根拠に従って行動すれば問題がない。しかし、変化が激しく多様な社会においては、一つひとつの自身の言動に理由を探す必要が生じ、それが正しかったのかどうかを他者によって評価される。しかも、評価する人間によって価値観が異なるのであるから、ある行動の是非の判断が分かれることもある。したがって、私たちは多様なフィードバックを求めるべく、常に行動しなければならないのである。これが、他者の目を気にする私たちの精神原理であり、様々なSNSで他者からの評価を気にする私たちの心理の背景にはこうしたものが存在するのであろう。自分自身の言動の正当性を他者から認めてもらいたいから、「いいね!」を押してもらわないと不安をおぼえるのである。

 こうした成熟社会においては、新しい形での社交が求められることになる。新しい社交の条件として、著者は二つのポイントを指摘している。

 現実的な条件についていへば、その最大のものは、先に見た生産現場の社会的変化であって、それ自体のなかで、目的志向集団よりも目的探究的な集団が優位を増してゐる、といふ事実である。(120頁)

 第一は、生産から消費へ、効率性からデザイン性へ、結果志向から過程志向へ、という移行である。つまり、目的自体を志向するのではなく、目的を探究するその過程に重きを置き、そうしたコミュニティの中に自分を位置付けることである。それがさらに、形のあるコミュニティからウェブ上のコミュニティへと移行しているのが、二十世紀から二十一世紀への移行を表していると解釈できるだろう。

 第二の条件は、現代の情報化社会がそれ自体の趨勢から多様化を進め、その結果、顔の見えない社会の画一的な情報の力がいちじるしく弱まった、といふことである。(中略)商品もまた、かつてのやうに圧倒的なヒットを見る例が少なくなって、先にも触れた通り、「多品種少量生産」といふのが時代の合言葉になりつつある。といふことは、ひとびとにとって一方的に強制される情報の比重が減り、その分だけ、顔の見える隣人との対話、すなはち、社交の生み出す情報の重味が増す、といふことを意味してゐるはずである。(121頁)

 ここでは、多様な関係性と、顔の見える関係性が指摘されている。一様な関係性ではなく多様な関係性ということは、自身でコミュニティへの参画が求められ、顔の見える関係性では高度なコミュニケーション能力が求められる。多様で顔の見える社交というと聞こえはいいものであるが、そこでは多様で高度な能力が求められる社会になっていることにも留意が必要であろう。


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