2016年7月16日土曜日

【第596回】『歴史/修正主義』(高橋哲哉、岩波書店、2001年)

 小泉元首相の靖国参拝時に刺激的な論考を発表していた著者による歴史および修正主義に関する書である。久々に読むと、改めて興味深い。

 複数の異なる物語が対立・抗争の関係にある場合、ある物語を採って別の物語を斥けようとするならば、当然ながら、「歴史は物語である」というだけでは済まず、物語の具体的内容に入って、それが、どのように、「排除と選別の暴力」を行使しているかを明らかにする必要がある。そして同時に、「排除と選別の暴力」を批判する「政治的」ないし「倫理的」な判断にコミットする必要がある。(48頁)

 国民国家を想像の共同体であると喝破し、その構成要素として物語性を挙げたベネディクト・アンダーソンを彷彿とさせる。物語を創りあげる過程で、他の物語との正当性を争うために具体的な証拠を求めることとなる。その結果、他の物語を排除でき、客観的に正当性があるかのような証拠らしきものが集められる。しかし、歴史において完全に価値中立的で客観的なものは存在し得ないものであるため、終わりなき信念対立を招いてしまうのである。日本と近隣のアジア諸国との歴史認識における対立を思い浮かべれば、わかりやすいだろう。

 「物語の哲学」は、「物語りえぬものについては沈黙せねばならない」と断言するものであった。この言語行為は、「遂行論」的には、「物語」になろうとしてなりきれないトラウマ的記憶に、「沈黙」を要求するものとなるほかはないだろう。(中略)「物語りえぬもの」についても、沈黙する必要などない。「物語」に達しないつぶやきも、叫びも、ざわめきも、その他のさまざまな声も、沈黙さえもが「歴史の肉体」の一部である。(73頁)

 物語とまで成り立たなくとも、声を上げることは大事なアクションである。著者からのエールとも呼べる温かみのある言葉を、傾聴したいものだ。


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