2016年8月6日土曜日

【第603回】『無門関を読む』(秋月龍珉、講談社、2002年)

 明快にわかる爽快感も心地よいが、わからないことが多い中で、何か心に引っ掛かりを残す読書体験というものもいい。正直、半分程度しか理解できなかったが、深みに圧倒された一冊である。

 日常ふだんの何の問題もないようなところに、改めて問題意識を起こさせるところに、古人の「公案」の慈悲にもとづく(否定即肯定)の活手段が存することを忘れてはなりません。(101頁)

 叱られたら何か自分が悪かったと思うのが自然であり、一喝されると何か自身の言動に問題があったのではないかと思うものだろう。しかし、何も問題がない時に一喝されることによって、普通の状態に対して意識を向けさせることができる、という著者の解釈に唸らさせられる。普通や普段といった状態に対して自覚的になれるというのは、時に重要な気づきを促すものなのかもしれない。

 禅師は僧のかついでいる「無一物」という「空」の意識を否定されたのです。(108頁)

 貧しいことを自慢し、清貧であることを暗に主張する僧に対して鋭い批判を行った公案を解説した箇所である。私たちは、苦労したこと、貧しいこと、虐げられていること、といった否定的なことを誇らしげに語りたくなる時がある。そうした状態は「無」や「空」ではなく、邪な意識が「有」る状態にすぎないのではないか。いたずらに自分を低めようとするときに、そのような自分を認めてもらいたいという意図が内面にあるかどうかを冷静に内省してみたいものだ。

 趙州はそのとき、履をぬいで頭にのせて出て行きました。別に意味などありません。まったく「無心の妙用」です。ただとっさに、もはや再び死ぬことのない、斬っても斬れないあるもの(真実の自己)を、そうした仕方で表現しただけです。趙州の表面的な所作などに付いてまわっては、それこそ「野狐禅」もいいところでしょう。要は、一度徹底的に座布団の上で「自我」に死にきることです。そのとき、不思議にまったく思いがけなく、それこそもう、たくましい宇宙一杯の「無相の自己」に甦ります。それはまったくなんら予期しない偉大な「自己」の誕生の経験です。これを「見性」(自性を徹見する)と申します。(126~127頁)

 有名な南泉斬猫の公案を解説した箇所である。南泉斬猫の解説には、これまでも何度となく接してきたが、今ひとつ理解できていなかったのであるが、著者の解説で腑に落ちた。「履をぬいで頭にのせて出て行」くことが普遍的な正解ということではない。そうではなくて、何も考えずとっさに行った行動というものに意味がある、という点に注意が必要だろう。私たちは、ベストプラクティスと称して他の人や組織の素晴らしい行動だけに着目するが、その意図や文脈と切り離した行動には、他者にとってどれほどの意味があるのだろうか。


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