2016年8月7日日曜日

【第604回】『大学・中庸【2回目】』(金谷治、岩波書店、1998年)

 論語が好きで、ともすると論語ばかりを読んでしまう。今回は、「四書」の論語以外の二つの作品を再読してみた。

 切るが如く磋くが如しとは、学ぶを道うなり。琢つが如く磨るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄なるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。(大学 第二章・二)

 愚直に学び続け、自分自身を謙虚に省みること。あまりに厳しいと言えばそう言えなくもないが、襟を正されるこうした言葉も時にはいいものではないか。

 是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、その已に知るの理に因りて益々これを窮め、以てその極に至ることを求めざること莫からしむ。(大学章句 本文 伝 第五章補伝)

 高等教育においては、何かを新しくゼロから教えてもらうという態度ではもったいない。そうではなくて、それまでの学びで持ち得た仮説をもとに、考えを推し進めたり、反論を契機として新たな気づきを得る、という学習態度が求められるのではないか。これは苦しくて厳しいというよりも、生きることとも渾然一体として繋がる、ゆたかな学びと言えるのではないだろうか。

 道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子はその睹ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。(中庸 第一章・一)

 孔子は一貫して道を大事にした生き方を提唱する。その難しさを理解すればするほど、道とは私たちにとって容易に近づけない存在ではないかと考えてしまう。しかし、道は、私たちのすぐそばにあるものであり、遠くに見える道は道ではないとここで述べられている。では、なぜ道は私たちから遠いところにあると思ってしまうのであろうか。

 道の行なわれざるや、我れこれを知れり。知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。(中庸 第二章・一)

 私たちの多くにとって耳の痛い至言である。出過ぎた真似をしても道から遠ざかってしまうし、浅はかすぎても道を遠くに感じてしまう。そうであるからこそ、中庸という生き方が大事なのである。


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