2016年8月15日月曜日

【第609回】『夏目漱石を江戸から読む』(小谷野敦、中央公論社、1995年)

 「もともと漱石がそれほど好きだったわけではない」という著者による漱石の解説本。江戸時代からの流れから読み解く興味深い設定もあり面白く読めた。私も好きな『行人』と『坊っちゃん』に関して記してみたい。

 まずは『坊っちゃん』から。

 『坊っちゃん』という作品が、「公平原型」ともいうべき伝統、ないしは荒事の伝統に新たな命を吹き込み、それ相応の完成度をもって登場しえたのには、時代背景との関連を考えねばならない。幕末から明治初期にかけて秩序は再び揺らぎ始め、そこに「野暮な正義漢」の活躍する余地、武士の精神に文学的表現を与えうる素地が生まれたのだ。もちろんそれは第一に、徳川家の崩壊であり、秩序の護持者としての源氏神話の敗北である。「教育の精神は単に学問を授ける許りではない、高尚な、正直な武士的な元気を鼓吹すると同時に、野卑な、軽躁な、暴慢な悪風を掃蕩するにある」(六)と山嵐は言う。ここから考えれば、坊っちゃんをこうした源氏神話を支える英雄像と見なすのも、かれらを佐幕として捉える見方を裏づけることになるだろう。(29~30頁)

 坊っちゃんを江戸時代における古き良き武士像として描いていたという大胆な仮説は面白い。理念型としての公平概念を重んじるという意味では坊っちゃんのイメージに合うようにも思える。

 この図式を推し進めると、あたかも作品の空白地帯のように、ひとりの登場人物が浮かび上がってくる。『坊つちやん』のなかで、重要な位置を占めながら極めて淡い印象しか与えず、その主体がどこにあるのかも詳らかでないままに、結果として「聖人」うらなりを裏切って、赤シャツになびいたらしい「マドンナ」とは、この図式に従うと、勤皇の志士たちによって思い描かれたユートピアの中心を占めるものとなるはずでありながら、洋行帰りの大久保・岩倉らによって建設されていった中央集権国家に取り込まれ、結果として江藤新平・西郷らを見殺しにすることになった天皇その人が姿を変えたものではないか。「聖人」は朱子学的文脈において、治者としての将軍をさす。この場合、マドンナの裏切りは、「朝敵」とされた徳川将軍の怨念とも言えようが、同時に、「武士」を滅ぼし、「攘夷」すら放擲した新政府への、勤皇の志士たちのルサンチマンも籠められていると見るべきではないか。(32~33頁)

 ともすると暴論ともされそうであるが、佐幕から奪われ、薩長の武士を重んじる側からも離れて政権に取り込まれた天皇をして、マドンナであると著者はしている。ご存知の通り、マドンナ自体は作品の中に実態としてほとんど出てこないが、その存在をめぐって坊っちゃん・山嵐が職を賭してまで行動に移させる。それはたしかにルサンチマンとでも形容できる得も言われぬエネルギーの放出と言えるのかもしれない。

 次に『行人』に移る。

 『行人』が奇妙なのは、そこに出てくる男たちが一様に「女がどの男を愛しているか」を問題にしながら、自分自身が女をどう思っているのかを語ろうとせず、語る必要があるとも思っていないことなのだ。(155頁)

 前期三部作からの系譜を踏まえて、行人において、漱石が描く男性が、女性からどう思われているかに異常に固執していることを著者は指摘する。漱石の描く主人公がどうにも煮え切らない理由がよくわからなかったが、こうして解説されると理解の第一歩になりそうだ。

 一郎もまた、精神病の娘は三沢に惚れていたという解釈に固執している。そう、彼らは皆、三四郎や与次郎の立派な後裔だったのだ。彼らの頭のなかに、「西洋の文芸」から学んだ恋愛という言葉が住み着いているとしても、それは江戸的伝統のなかで、ある本質的な変容を被ってしまっている。江戸的な「恋愛」とは、女が男に惚れることによって男の栄光を増す類のものなのである。(157頁)
 西洋の恋愛は、まず男が女性に全面的な誠実と忠誠を誓い、女性が自分を選びとってくれるのを待つものだとすれば、江戸的なそれは、女性が身を投げ出して男への「誠」を証明し、しかるのちに男はおもむろにこれを受け入れる、というものなのだ。(158頁)

 江戸時代における恋愛と、西洋における恋愛。前者から後者への移行の時代において、両者の間で悩み苦しむ男性の苦悩を漱石は描いていたのである。

 意図的かどうかは知らないが、漱石によるメレディスの誤読は、「西洋的恋愛」は精神的なものだ、という近代日本知識人の典型的な誤解、あるいは単純化を示している。実際の差異は、すでに述べたように、男が献身するか、女が献身するか、というところにあるのに、一郎といい、『こゝろ』の先生といい、それを「肉体ー霊魂」といった差異に求めてしまっている。(161頁)

 恋愛は一つの事象に過ぎず、漱石は、よく言われるように、近代における個を描き出したのである。その近代的個人の本質が、心身二元論の極端な対照として表されている。



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