2016年8月12日金曜日

【第606回】『高校生が感動した「論語」』(佐久協、祥伝社、2006年)

 高校で教鞭をとられていた著者は、国語の授業で論語を取り上げていたという。本来的には論語に興味を持つのが難しい生徒を相手にした試行錯誤の結果、大胆な意訳に至った。その内容を披瀝したのが本書であり、原書からの意図的な飛躍が興味深い一冊である。

 人間にとって最も大切な誠実さを持ち合わせていない者は、シャフトやアクセルのない車と同じで、いくら教育や指導をして先へ進めたくたって進めようがないやね。(為政第二・二十二)

 教育や指導に携わっている方には実感を持てることであろう。何をやるか、何を学んでもらうかは、相手が誠実であり、謙虚な気持ちを持っているかどうか、というマインドセットに依存する。こうしたマインドセットをどう涵養できるかが、教育や指導以前の段階において必要なのであろう。

 他人が自分を認めてくれないと嘆く者は多いが、自分が周りにいる他人の才能や長所に気づかないことを嘆くのが先だろう。他人の才能に気づく能力を身につけてみなよ、そんな人物を世間が放っておくと思うかね。(学而第一・十六)

 頑張ってもそれを認めてくれないと、他者が認めてくれるようにアピールすると良いように思える。しかし、そうした行為は、利己的な意図が見え透いて逆効果に陥ることも多い。特に「出る杭は打たれる」と言われる日本における社会や組織において、その傾向は顕著であろう。ではどうすれば他者が認めてくれるか。まず先に、他者を認めることであるとここで述べられている。そうすれば、結果的に、他者や社会が自分を認めてくれるとここに書かれているように捉えることもできる。また、もっと飛躍すれば、他者の素晴らしい部分に気づくことで、その点を盗んだり、自分自身の開発につなげる契機にすることもできるのではないか。

 弟子の子貢が、「貧乏でもへつらわない、金持ちになっても高ぶらないというのはどうです。なかなか立派でしょう」と言うから、「まあな。でも、貧乏でいながら学問を楽しみ、金持ちになっても礼儀にいそしむ者にはおよばないな」と答えてやったんだ。どういう意味か分かるかね。「へつらわない」、「高ぶらない」というように何かを否定しているうちはマダマダだ、もっと積極的に自分を磨かなければダメだよと言うつもりだったんだ。そうしたら、そう説明する前に子貢がこう言ったのさ。「詩経に『磨きに磨きをかける』という句がありますが、磨くというのは、欠点などを削り落とすという意味でなく、自分の中にあって、埃をかぶっている長所を積極的に外にあらわすという意味なんですね」とな。あの素早い反応には正直いって驚いた。そこで、「いやあ、でかした、でかした。お前も大した詩の理解者じゃないか。お前とならば一緒に詩を語り合えるよ。ツーッと言えばカーッだもの」と誉めてやったよ。(学而第一・十五)

 磨きを掛けるという言葉から私たちは、すでに現れている長所をより伸ばすという発想をしがちだ。もちそんそうした作用も重要であろうが、ここで書かれているように、まだ顕在化していない内なる長所を磨くことによって外にあらわすという考え方はより重要であろう。なぜなら、潜在的な長所に気づき、それを外にあらわすことによって、既存の長所との兼ね合いで人間的なゆたかさが生まれるとも考えられるからである。


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