2018年4月29日日曜日

【第832回】『風景との巡り合い』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 言わずと知れた日本を代表する風景画家の一人である著者が、なぜ風景画を描くことになったのか。また、風景を描き続けたのはなぜか。以下の一節にその答えがあるように私には思える。自然を描きながら、自然の中に自身を位置付け、自然を通じて自分自身の内奥を描いていたのではないだろうか。

 私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によって、いくらか救われる。(178頁)

 自身の作品に著者自身が言葉を添えながら構成されている本作。頭と心で、じっくりと味わいたい一冊である。

 夏の早朝の草原の中に、一すじの道がある。
 遍歴の果てに、新しく始まる道。
 絶望と希望が織り交ぜられた心の道。(「道」(18頁))
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 絵画もいいが、言葉に考えさせられた。新しい道というものにポジティヴな清新さを感じていたが、希望とともに絶望が混ざっているというところが唸らさせられる。

 弦楽器の合奏の中を
 ピアノの静かな旋律が通り過ぎる。(「緑響く」(115頁))
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 好きな作品の一つ。白馬を「ピアノの静かな旋律」と形容しているところがすごい。絵画の中に音を見出すという感覚は残念ながら持ち得ないが、解説を受けるとそのように感じることもできる。

 雨が止んで、青く澄んだ嶺々が爽やかな姿を見せる。
 谷間からは白い雲が、ためらいながら立ち昇ってくる。(「山嶺白雲」(133頁))

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 意識して鑑賞したのはおそらく初めてである。思わずページをめくるスピードが弱まり、じっくりと見てしまった。なんというか、気持ちが洗われる感じがする作品である。


2018年4月28日土曜日

【第831回】『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎/植木雅俊、筑摩書房、2015年)


 古くは聖徳太子が法華経の注釈書を著し、平安期には最澄が天台宗を広めた。鎌倉の新仏教時代には、法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)が専修念仏を説き、道元は曹洞宗の理論的根拠を法華経に求めたという。私たちが歴史の授業で学んだように、法華経が日本人に与えてきた影響は大きいことはいうまでもない。

 しかし、それがどのような教義内容であるかまでを深掘りして理解しようとした人は必ずしも多くないのではないか。かくいう私もそうした一人である。本書は、社会学者の橋爪大三郎氏と、法華経の現代語訳を著した植木雅俊氏との対談であり、初学者にカジュアルに法華経を紹介する意欲作である。入門書として手軽に学び始めながらも、しかし考えさせる箇所も多い、お得な書籍である。

 まず仏教の時間論について取り上げてみる。

植木 ええ。仏教の時間論においては、過去がこうだったから現在こうなったという言い方はしない。そうではなく、現在がこうだからきっと過去もこうであっただろうと解釈する。
橋爪 微妙な違いですね。
植木 ですから現在の生き方次第で、過去・未来の意味が変わってくる。仏教は、現在の生き方を重視します。(97頁)

 私たち素人が仏教の輪廻転生という概念を考えるときに、過去も現在も未来も決まっているという誤解を抱きがちではないだろうか。しかし、植木氏はそうした決定論的な捉え方ではなく、現在における能動的な理解・行動を仏教は重んじていると解説する。現在を大事に生きようとする営為によって、過去の経験を意味付け、未来に対する視野の広がりを持つことができる、ということであろうか。

 こうした決定論的な解釈という誤解は、因縁という概念に対する誤解にも繋がっていることが多いだろう。著者たちは、因縁について私たちが抱きがちな誤解を解くべく、以下のように述べている。

植木 普通は、自分の持っている因と縁にずるずる引きずられることが多いと思います。そこで自己を磨き、なおかつ強くしていかなければ、自らの因と縁のつながり方を選択することができない。仏教は、智慧の眼を開き人間の主体性と創造性を強くして、因・縁・果の悪しき連鎖をプラスの連鎖に転ずることを説いたのだろうと思います。
橋爪 因・縁と別に、主体性(努力、決意)をもたらす智慧が人間にそなわっている、という考え方ですか。
植木 ええ、実際にそれを認めています。自業自得というのは自己責任論で、決定論ではない。神さまや、他の人によって決められたものではありません。ほとんどの人は因・縁に引きずられて投げやりになってしまうので、自分で道を開いていこうとする人は少ないかもしれない。(101頁)

 因縁という、私たちに影響を与えようとする存在はたしかに実感としてある。しかし、私たちの弱さによって、そうしたものを何かができない理由として後付けで利用しようとすることもあるのではないだろうか。因縁の存在を認めたうえで、そうしたものを選択しようとしない人間の智慧という創造的な営為に焦点を当てたこの引用箇所は、厳しくも可能性に溢れた内容である。

植木 仏教における絶対者とは、あえて言えば人間一人ひとりです。(211頁)

 現在における人間の主体性を重んじる仏教においては、一神教における絶対的な他者というものを想定しない。つまりは、他者ではなく自分自身における考え方や行動が唯一無二の原則となるのである。このような考え方に基づいて、絶対者を人間一人ひとりであるとしたこの箇所を私たちはよく噛みしめる必要があるのではないだろうか。

橋爪 このような菩薩行は、覚りを得たなら、必要なくなるはずです。菩薩行は、それ自体よいものだとしても、あくまでも手段なのですから。<菩薩行=手段><覚り=目的>の関係ははっきりしている。
 ところが、久遠のブッダは、覚りを得た後も、ブッダでありながら、菩薩行を続けているという。菩薩行は、手段ではなくて、それ自体が、目的化している。これはとても大胆な、発想の逆転だと思う。(328頁)

 本書で最も面白いと思い、かつ惹かれた箇所はここである。武道や花道といった〇〇道を重んじる日本人にとって、納得的な部分ではないだろうか。手段の目的化は効率性を重んじる日常においては批判的に捉えられることが多いが、何かを極めようと努力し続けるという意味では大きな可能性を持つものなのではないか。

植木 誰も語っていない空中からの声が聞こえてきたということは、おのずからそれを自得したということです。あるいは、この菩薩の振る舞いが法華経の精神に合致していたということであって、ここには重要なメッセージが込められています。経典読誦などの仏道修行の形式は満たしていなくても、誰人をも尊重する行ないを貫いているならば、それが法華経を行じていることになる。逆に、仏道修行の形式を満たしていても、人間を軽んじたり、睥睨しているならば、それはもはや仏教徒は言えない。ここには、一宗一派や、イデオロギー、セクト主義などの壁を乗り越える視点が読み取れます。(399頁)

 文字が読めず、したがってテクストとしての法華経を読めなかった不軽菩薩が、自ずから仏道を自得したという箇所。文字が読めるかどうか、学問を修めたかどうか、他人より秀でた何かがあるかどうか、といった外形的なものではなく、法華経自体を体得し自身の言動の拠り所としていられるかどうか、が大事なのである。外形的なものではなく、内面に価値を見出すことは、外から見える違いに意味を見出そうとし、その差異に差別を見出そうとする私たちに警鐘を鳴らす。心して読みたい箇所である。

【第737回】『仏教、本当の教え』(植木雅俊、中央公論新社、2011年)
【第41回】『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸著、講談社、2011年)
【第100回】『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎、筑摩書房、2006年)

2018年4月22日日曜日

【第830回】『火車』(宮部みゆき、新潮社、1998年)

 スピーディーな展開に惹きつけられ、物語にどんどん引き込まれる。殺人、なりすまし、カード破産、といった暗いテーマが重層的に連なっているが、不思議と暗鬱とした気持ちにはならない。また、自分とは異なる世界とも思えず、現代を生きる私たちにとって、自分と重なる部分もあり、また周囲にこうした人がいるのでは、と思わさせられる。

 おそらくそれは、殺人を犯した(と思われる)人物が、絶対的な悪として描かれていないからであろう。もちろん、人を殺すことを認めるような描き方は一切なされていないし、そう思わせられる内容でもない。そうではなくて、殺人に至る人生、どのような思いで日々を生きてきたのか、といった部分に、私たちが共感できるものがふんだんに盛り込まれているからであろう。

 そういうことはあるものだ。ぼんやりと見過ごしつつ、なにか妙だなと思っていたものの正体が、とんでもない代物だったということが。焦点が合った途端に、それがわかる。(134頁)

 焦点が合っていない対象を、私たちは仔細に識別することができない。反対に言えば焦点を合わせれば、その対象を観察し、そこに何かを見出すことができる。


 にもかかわらず、焦点を意識的にあわせてなくても、直感的になにかがあると感じたり、違和を感じることができるのだから、人間というものは面白い。そうした引っ掛かりを思い返してみることで、私たちが大事にしていることに気づく、ということがあるのではないだろうか。


2018年4月21日土曜日

【第829回】『徳川時代の宗教』(R.N.ベラー、池田昭訳、岩波書店、1996年)


 本書は、一九五五年に著者がハーバード大で学位論文として著わしたものを書籍として編み直したものである。日本が、先の大戦から急速に復興している時期に書かれたものであり、資本主義国家としてなぜ成功しつつあるのかを明らかにするという背景もあったのであろう。彼の国における、他国の成功要因分析にかける執念には恐れ入るばかりである。

 日本という国家および国民の精神性は、他国の方がつまびらかにする方が、納得的に思えるのだから不思議なものである。まず、宗教というともすると抽象的になりがちな概念を、著者は以下のように定義づけている。

 われわれは、パウル・ティリッヒ(Paul Tilich)にしたがって、宗教を、究極的関心にかんする人間の態度と行為と定義する。この究極的関心は、究極的に価値があり、意義があるもの、すなわちわれわれが究極的価値と呼ぶものと関係がある。あるいは価値と意義に対する究極的脅威、すなわちわれわれが究極的挫折と呼ぶものと関係がある。社会道徳の基礎となる一連の意義ある究極的価値を供給することは、宗教のもつ社会機能の一つである。そのような価値が制度化されると、宗教は社会の中心価値であるといい得る。(42頁)

 その上で、日本における宗教の有り様を、以下のように端的に述べている。 

 著しく複合した現象をいたって簡単な定式でいうと、日本宗教は根本的には調和ーー人間間のそれと自然とのそれーーに関心を寄せる。伝統の諸々の要素をみると、調和の解釈にはいくらか違いがあっても、それぞれ特有の見方がある。しかも、それらのどれも、結局のところ、儀式、振舞い、ほとんど舞といった生活の表象に凝集し、これらに表現されているものは、宇宙の一切の存在に慈しみをもち、心くばりをしている情念である。(27~28頁)

 対自然および対人間といういずれの対象に対してもそれぞれとの関係性を想定し、かつそうした関係性が調和的であることが、日本社会では重視されてきたという。ここからさらに考察を進め、日本における価値体系を著者は以下のように述べている。

 家族であれ、藩であれ、全体としての日本であれ、当該集団の構成メンバーの一人が属しているのは特殊な体系ないしは集合体である。これらに献身することが、真理とか正義とかに対するような普遍主義的献身よりも優先する傾向をもつ。もちろん、徳川時代の日本でも、普遍主義や普遍主義への献身はあった。しかし、主張したいのは、特殊主義がなによりも優先したということである。(54頁)

 普遍的な価値観ではなく特殊的な価値観にコミットすることが日本における特徴として指摘されていることは納得的である。天皇という存在への形式的なコミットメントの有無が官軍と賊軍とを分けることになり、普遍的な正義ではなく三種の神器を求めてきた歴史上の争いを見れば自明であろう。そうした動きは数百年前の歴史的遺物ではなく、二・二六事件のように数十年前のものでしかないことに留意するべきではないだろうか。

 こうした特殊的な価値観を重視する志向が、経済活動においてはポジティヴに働いたという指摘は興味深い。

 日本での価値体系では遂行が強調されていたのだから、これらの特殊主義的結合こそが、効果的な生産と商売の取引きにおける正直さの水準の発展を、不可避的に妨げるより、むしろその水準をあげるのに役立ったというべきであろう。(81~82頁)

 よく言えば柔軟に環境変化に対応できる術であり、悪く言えば日和見主義と言える傾向であろうか。こうした柔軟かつ日和見主義的な価値観が、故河合隼雄氏が喝破した「中空構造」における中心を担う天皇という存在に結びつき、国家神道が形成されることとなった。

 徳川および明治時代(そしてさらにもっと初期の時代)における、日本のナショナリズムのあらわれは、ほとんどすべて国家神道のあらわれとみることができる。実際には、国家神道は、聖なる形式のナショナリズムとして、おそらく最もよく理解できる。したがって、この意味の国家神道は、徳川時代を通じて着実に増大し、そしてたしかなところでは、末期までには、第一義とする教義のうえで、天皇の特別の神聖な祖先神と天皇の性格、および「神国」日本にかんすることについては、ほとんどすべての宗教的信条ではおおむね一致していた。こうした日本のナショナリズムの意味で、国家神道は、他の諸宗教と両立できないことはなく、またこのことから、明治政府は国家神道は「宗教にあらず」と主張することにもなった。(117頁)

 国家神道という装置の凄さは、「宗教にあらず」という独特の位置づけを確保した点にある。だからこそ、政教分離と矛盾することなく、しかし国民一人ひとりは無意識下で国家へのコミットメントが高まる結果になった。こうした日本における権力が持つ特異な宗教装置に対して、日本に生きる私たちは、過去の反省を踏まえて自覚的であることが求められるのではないだろうか。

【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)
【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
【第765回】『<日本人>の境界』(小熊英二、新曜社、1998年)
【第426回】『<民主>と<愛国>』(小熊英二、新曜社、2002年)

2018年4月15日日曜日

【第828回】Number950「大谷翔平 夢の始まり。」(文藝春秋、2018年)


 競技のルールを知らなくても、その競技を見たくなる存在が、スポーツの世界には時に現れる。メジャーに渡った選手の中では、野茂英雄やイチローがそうであったように、大谷翔平選手もまた、既にそうした人物の一人になったのではないだろうか。それほどまでに、二刀流という稀有な特徴を持った大谷選手の投打にわたる活躍は、鮮烈な印象を放っている。

 メジャーでも注目されているとはいえ、日本における報道とアメリカにおける報道の有り様は違うだろう。しかし、彼我の差を勘案したとしても、アメリカでの注目もまた大きいに違いない。そうであるのに、初先発初勝利を飾り、打者としては三戦連続での本塁打を放った大活躍の直後のインタビューで、以下のように落ち着いた言葉を彼は紡いだという。

 まだ数試合しか出ていないし、まだ2チームとしかやっていない。他にどういう人(選手)がいるのかもわからないし、どういう環境があるのかもわかりませんから、そこに惑わされず、しっかり自分の中で整理して、冷静に見ていきたいなと思っています(14頁)

 これが二十三歳の若者の言葉なのだから驚いてしまう。私たちは大谷翔平という選手を、投打の二刀流で活躍できるパフォーマンスとそれを支える身体面に着目しがちだ。しかし、自身を客観視できるメタ認知能力が卓越して高いことこそが、環境変化に対応し、周囲の喧騒に左右されず、一つずつアジャストするできる理由なのかもしれない。

 自身の投球に関しては「まだ何も変えていない」(15頁)と述べる一方で、バッティングについては、オープン戦の最終盤からステップを大きく変えたことは有名だ。そのポイントに関する自身の解説にもまた唸らさせられる。

 バットの位置に関しても、速い球、動く球を捉えるためにはある程度、固定しないといけないなというのを感じて日本からやってきてたんですけど、そうやってちょっとずつやってきたことが引き出しとなって、今回、ハマったんだと思います。急激に変えよう、今までやってきたことを捨てて新しいことをやろうとしたわけじゃなくて、僕の中ではアプローチも形もほぼ変わってないんです。(19頁)

 いやはや、イチローの言葉なのではと誤解してしまうくらい、深みのある言葉である。まず、結果が出ないからフォームを変えたということではなく、これまでアジャストしようと絶え間ざるチャレンジを続けた延長にあるという点に驚かされた。メジャーに行き、注目されながらも結果を出せないから過去の方法を変えようとしたのだと、勝手に解釈してしまっていた自身の不明を恥じた次第である。

 さらには、少しずつの試みを自覚的に行ってきたからこそ、それが「引き出し」として自身の中に言語化された状態で蓄積されていたということも大きいのではないか。目先の行動を変えることはそれほど難しいことではないが、それを自覚して自身の中にストックすることは容易なことではない。これからどれほど私たちに素晴らしい活躍を見せてくれるのか、彼のパフォーマンスとともに、卓越したプロフェッショナルの発する言葉にも目が離せない。

【第826回】Number949「ベイスターズが愛されるワケ。」(文藝春秋、2018年)
【第824回】『アオアシ』【第1巻〜第12巻】(小林有吾、小学館、2015年〜)
【第449回】『イチロー・インタヴューズ』(石田雄太、文藝春秋、2010年)

2018年4月14日土曜日

【第827回】『京洛四季』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 京都に引っ越すことが決まってから、改めて京都への興味が増してきた。歴史的な建物や文化に目が向きがちであったが、その風景の美しさに、魁夷の作品を通じて感じ入った。
 本書では、京都の風景を四季に分けて配列している。どの季節にも、違った美しさがあり、日本の四季の素晴らしさに気付かされた。

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 庭は生きている。生きているということは絶えず変化していることを意味する。今日、名園として私達の眺めている庭の多くは、作庭当初の経験とはよほど感じが変ったものであろう。(85~86頁)

 自然を私たちの作為によって変えようとするのではなく、自然の有り様と私たちの有り様を調和させようとすること。そのためには、自然な悠久の変化を所与のものとして、その変化を楽しみながら、接することが求められる。

 庭園一つにも、私たち<日本人>の考え方や感じ方が表れているのかもしれない。

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2018年4月8日日曜日

【第826回】Number949「ベイスターズが愛されるワケ。」(文藝春秋、2018年)


 ベイスターズが優勝してから二十年が経った。優勝する少し前からの高揚感の高まりは優勝とともに去り、その後の停滞は長く、暗いものだった。横浜出身者であっても「ベイスターズを応援している」とは言いづらい、悲しい時代が続いた。

 DeNAが資本参加を表明した際には正直ほとんど期待していなかったが、結果からすると、その頃からチームの雰囲気はポジティヴに変化してきたように思う。私自身が関東を離れてからのことなのでハマスタを久しく訪れていないが、ファンを重視した球団の施策によって注目度が増したとよく報道されている。

 但し、野球場に人が訪れるのは、球団の努力とともにそこで展開される野球自体が楽しいことが前提であろう。端的に言えば、いかにエキサイティングなプレイが展開される場面を提供できるか、である。そのように考えれば、打者で言えば日本代表の四番でもある筒香嘉智選手と、投手では新人の頃からクローザーを任される山﨑康晃選手の活躍が大きな要因となっているだろう。

 まずは筒香選手の以下の言葉に注目してみた。

 急に『できた』と思えるような技術は、それは自分のものにはなっていなくて、本当に手にするまでには時間がかかるものです。だから、継続してやっていくことが大事です。でも、逆に言えば、その中でつかんだものは深く、離れないものであると思っています。(25頁)

 彼からは求道者のような雰囲気が醸し出されている。活躍しても浮かれることはなく、自身が思い描く理想像に向けて、自身を奮い立たせて一歩ずつ前に行く姿は、さすがは日本野球界の主砲である。

 一喜一憂しない理由は、上述した言葉の中に表れているのであろう。現在の結果は過去からの蓄積に因るものであり、将来を創り出すものは現在の自身の鍛錬に因るものであるという確固とした信念は揺るがないようだ。だからこそ、目の前の結果よりも継続して努力をし続けることで本質を掴むことを目指しているのではないだろうか。

 他方で、守護神を務める山﨑選手の以下の意識には、筒香選手の言葉とは違った意味で驚かされた。

 「もちろん、結果が出ていない時は悩ましい部分もあります。やっぱり人間なんで、手や足が重たくなることもある。だけど、結果にはスランプがあってもファンサービスにスランプはないと思う。(サインを求められ)『すみません、忙しいんで』と断るのは簡単ですよ。でもそれをやってしまったら、がんばってチケットを取ってくれた人たちに対して、プロとしてどうなのかなって。そんな選手になりたくないなっていう思いがぼくにはありますね」(32頁)

 よく打者については、バッティングにはスランプがあっても走塁にはスランプがない、という言い方がされる。しかし、山﨑選手のファンサービスにスランプがないというプレフェッショナルとしての意識の高さには恐れ入る。

 彼は守護神を三年間担ってきたが、昨年の4月には不調からストッパーを外れた時期があった。そうした不調の時期には、一部のファンから心ない罵声を飛ばされることも容易に想像がつく。それでも、ファンを大事にし、自身のパフォーマンスに自分自身が納得できない時期でもファンサービスを尽くす。これは、頭では理解していても、なかなかできることではないだろう。自身を律し、感情を管理する術を鍛えているからこそ、新人から守護神というプレッシャーのかかる役割を担っている原動力となっているとも考えられるのではないだろうか。

 スタートダッシュがあまりうまくいっていない今期ではあるが、主砲と守護神の活躍で、ベイスターズが本来の力を発揮する姿を早く見たいものである。

【第822回】Number948「僕らは本田圭佑を待っている。」(文藝春秋、2018年)
【第815回】Number947「平昌五輪 17日間の神話。」(文藝春秋、2018年)
【第824回】『アオアシ』【第1巻〜第12巻】(小林有吾、小学館、2015年〜)
【第449回】『イチロー・インタヴューズ』(石田雄太、文藝春秋、2010年)

2018年4月7日土曜日

【第825回】『唐招提寺全障壁画』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 襖絵という立体的な視覚がなせるわざなのか。普通の絵画とは異なる迫力のようなものを感じる。現在行われている御影堂の修繕が終わらないと、東山魁夷の襖絵も見られることができないようだ。早く、見られる時が来ることを願ってやまない。

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【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2018年4月1日日曜日

【第824回】『アオアシ』【第1巻〜第12巻】(小林有吾、小学館、2015年〜)


 JFA(日本サッカー協会)が興味深い取り組みをしていることを、目にしたり耳にすることが最近多い。直近ではJリーグチェアマンの村井満さんによる講演会の記事(https://coach.co.jp/lecture/20180201.html)が挙げられる。JFAは、「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する。」という理念を謳い、ユースから一貫した人財育成を行っていることは有名だろう。

 本作品は、そのJユースに焦点が当てられたサッカー漫画である。スピード感があって物語が面白いのに加え、読みながら考えさせられる作品だ。

 何よりも言語化という言葉が至るところで表れることが特徴的だろう。経験を言語化することで主人公は成長し、言語によって意思を多様なチームメイトと共有することでチームが成熟していく。チームで言語を共有するためには、他者の意見を傾聴し、明確な指示出しを行い、時に厳しい意見のぶつけ合うことが求められる。

昇格生と同じ量の練習やってたんじゃ…何も考えないでサッカーやってた俺とあいつらの時間の差を、埋められねぇんだ。(37話)

 言語化するためには考えることが求められる。考え続けられるのは、その対象や過程が好きだからではないだろうか。好きだからこそ、そこで得られた言語を様々な文脈に活かそうと考える。好きこそ物の上手なれ、とはよく言ったものだと思う。多様な文脈や状況で応用することで抽象度は上がり、自分にとってしっくりとした表現になる。 

自分でつかんだ答えなら、一生忘れない。(38話)

 言語化をする主体は自分自身である。しかし、考え続けた結果として得られるものは、すべてを自身で行う必要はない。そこで求められるのがコーチングであろう。考えずに他者や書籍から得られた「答え」では意味がない。自分で考えて納得感のある言葉を紡ぎ出すことができれば、その思考や経験の過程における文脈が活きてくる。

 したがって、相手の意欲や能力によって関与の仕方は異なる。いわゆるティーチングが問題なのではなくて、他者の情況を捉えずに一つの育成方法に固執することが問題なのである。このように考えれば、コーチングという言葉をもっと柔軟に捉えるべきであろう。大事なことは、相手を観察してその情況を把握し、複数の選択肢の中から最適と思われる仮説を選び出し、間違っていたらすぐに修正することではないだろうか。

【第82回】『スラムダンク(全31巻)』(井上雄彦、集英社、1991年〜1996年)