2018年4月21日土曜日

【第829回】『徳川時代の宗教』(R.N.ベラー、池田昭訳、岩波書店、1996年)


 本書は、一九五五年に著者がハーバード大で学位論文として著わしたものを書籍として編み直したものである。日本が、先の大戦から急速に復興している時期に書かれたものであり、資本主義国家としてなぜ成功しつつあるのかを明らかにするという背景もあったのであろう。彼の国における、他国の成功要因分析にかける執念には恐れ入るばかりである。

 日本という国家および国民の精神性は、他国の方がつまびらかにする方が、納得的に思えるのだから不思議なものである。まず、宗教というともすると抽象的になりがちな概念を、著者は以下のように定義づけている。

 われわれは、パウル・ティリッヒ(Paul Tilich)にしたがって、宗教を、究極的関心にかんする人間の態度と行為と定義する。この究極的関心は、究極的に価値があり、意義があるもの、すなわちわれわれが究極的価値と呼ぶものと関係がある。あるいは価値と意義に対する究極的脅威、すなわちわれわれが究極的挫折と呼ぶものと関係がある。社会道徳の基礎となる一連の意義ある究極的価値を供給することは、宗教のもつ社会機能の一つである。そのような価値が制度化されると、宗教は社会の中心価値であるといい得る。(42頁)

 その上で、日本における宗教の有り様を、以下のように端的に述べている。 

 著しく複合した現象をいたって簡単な定式でいうと、日本宗教は根本的には調和ーー人間間のそれと自然とのそれーーに関心を寄せる。伝統の諸々の要素をみると、調和の解釈にはいくらか違いがあっても、それぞれ特有の見方がある。しかも、それらのどれも、結局のところ、儀式、振舞い、ほとんど舞といった生活の表象に凝集し、これらに表現されているものは、宇宙の一切の存在に慈しみをもち、心くばりをしている情念である。(27~28頁)

 対自然および対人間といういずれの対象に対してもそれぞれとの関係性を想定し、かつそうした関係性が調和的であることが、日本社会では重視されてきたという。ここからさらに考察を進め、日本における価値体系を著者は以下のように述べている。

 家族であれ、藩であれ、全体としての日本であれ、当該集団の構成メンバーの一人が属しているのは特殊な体系ないしは集合体である。これらに献身することが、真理とか正義とかに対するような普遍主義的献身よりも優先する傾向をもつ。もちろん、徳川時代の日本でも、普遍主義や普遍主義への献身はあった。しかし、主張したいのは、特殊主義がなによりも優先したということである。(54頁)

 普遍的な価値観ではなく特殊的な価値観にコミットすることが日本における特徴として指摘されていることは納得的である。天皇という存在への形式的なコミットメントの有無が官軍と賊軍とを分けることになり、普遍的な正義ではなく三種の神器を求めてきた歴史上の争いを見れば自明であろう。そうした動きは数百年前の歴史的遺物ではなく、二・二六事件のように数十年前のものでしかないことに留意するべきではないだろうか。

 こうした特殊的な価値観を重視する志向が、経済活動においてはポジティヴに働いたという指摘は興味深い。

 日本での価値体系では遂行が強調されていたのだから、これらの特殊主義的結合こそが、効果的な生産と商売の取引きにおける正直さの水準の発展を、不可避的に妨げるより、むしろその水準をあげるのに役立ったというべきであろう。(81~82頁)

 よく言えば柔軟に環境変化に対応できる術であり、悪く言えば日和見主義と言える傾向であろうか。こうした柔軟かつ日和見主義的な価値観が、故河合隼雄氏が喝破した「中空構造」における中心を担う天皇という存在に結びつき、国家神道が形成されることとなった。

 徳川および明治時代(そしてさらにもっと初期の時代)における、日本のナショナリズムのあらわれは、ほとんどすべて国家神道のあらわれとみることができる。実際には、国家神道は、聖なる形式のナショナリズムとして、おそらく最もよく理解できる。したがって、この意味の国家神道は、徳川時代を通じて着実に増大し、そしてたしかなところでは、末期までには、第一義とする教義のうえで、天皇の特別の神聖な祖先神と天皇の性格、および「神国」日本にかんすることについては、ほとんどすべての宗教的信条ではおおむね一致していた。こうした日本のナショナリズムの意味で、国家神道は、他の諸宗教と両立できないことはなく、またこのことから、明治政府は国家神道は「宗教にあらず」と主張することにもなった。(117頁)

 国家神道という装置の凄さは、「宗教にあらず」という独特の位置づけを確保した点にある。だからこそ、政教分離と矛盾することなく、しかし国民一人ひとりは無意識下で国家へのコミットメントが高まる結果になった。こうした日本における権力が持つ特異な宗教装置に対して、日本に生きる私たちは、過去の反省を踏まえて自覚的であることが求められるのではないだろうか。

【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)
【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
【第765回】『<日本人>の境界』(小熊英二、新曜社、1998年)
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