2018年4月28日土曜日

【第831回】『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎/植木雅俊、筑摩書房、2015年)


 古くは聖徳太子が法華経の注釈書を著し、平安期には最澄が天台宗を広めた。鎌倉の新仏教時代には、法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)が専修念仏を説き、道元は曹洞宗の理論的根拠を法華経に求めたという。私たちが歴史の授業で学んだように、法華経が日本人に与えてきた影響は大きいことはいうまでもない。

 しかし、それがどのような教義内容であるかまでを深掘りして理解しようとした人は必ずしも多くないのではないか。かくいう私もそうした一人である。本書は、社会学者の橋爪大三郎氏と、法華経の現代語訳を著した植木雅俊氏との対談であり、初学者にカジュアルに法華経を紹介する意欲作である。入門書として手軽に学び始めながらも、しかし考えさせる箇所も多い、お得な書籍である。

 まず仏教の時間論について取り上げてみる。

植木 ええ。仏教の時間論においては、過去がこうだったから現在こうなったという言い方はしない。そうではなく、現在がこうだからきっと過去もこうであっただろうと解釈する。
橋爪 微妙な違いですね。
植木 ですから現在の生き方次第で、過去・未来の意味が変わってくる。仏教は、現在の生き方を重視します。(97頁)

 私たち素人が仏教の輪廻転生という概念を考えるときに、過去も現在も未来も決まっているという誤解を抱きがちではないだろうか。しかし、植木氏はそうした決定論的な捉え方ではなく、現在における能動的な理解・行動を仏教は重んじていると解説する。現在を大事に生きようとする営為によって、過去の経験を意味付け、未来に対する視野の広がりを持つことができる、ということであろうか。

 こうした決定論的な解釈という誤解は、因縁という概念に対する誤解にも繋がっていることが多いだろう。著者たちは、因縁について私たちが抱きがちな誤解を解くべく、以下のように述べている。

植木 普通は、自分の持っている因と縁にずるずる引きずられることが多いと思います。そこで自己を磨き、なおかつ強くしていかなければ、自らの因と縁のつながり方を選択することができない。仏教は、智慧の眼を開き人間の主体性と創造性を強くして、因・縁・果の悪しき連鎖をプラスの連鎖に転ずることを説いたのだろうと思います。
橋爪 因・縁と別に、主体性(努力、決意)をもたらす智慧が人間にそなわっている、という考え方ですか。
植木 ええ、実際にそれを認めています。自業自得というのは自己責任論で、決定論ではない。神さまや、他の人によって決められたものではありません。ほとんどの人は因・縁に引きずられて投げやりになってしまうので、自分で道を開いていこうとする人は少ないかもしれない。(101頁)

 因縁という、私たちに影響を与えようとする存在はたしかに実感としてある。しかし、私たちの弱さによって、そうしたものを何かができない理由として後付けで利用しようとすることもあるのではないだろうか。因縁の存在を認めたうえで、そうしたものを選択しようとしない人間の智慧という創造的な営為に焦点を当てたこの引用箇所は、厳しくも可能性に溢れた内容である。

植木 仏教における絶対者とは、あえて言えば人間一人ひとりです。(211頁)

 現在における人間の主体性を重んじる仏教においては、一神教における絶対的な他者というものを想定しない。つまりは、他者ではなく自分自身における考え方や行動が唯一無二の原則となるのである。このような考え方に基づいて、絶対者を人間一人ひとりであるとしたこの箇所を私たちはよく噛みしめる必要があるのではないだろうか。

橋爪 このような菩薩行は、覚りを得たなら、必要なくなるはずです。菩薩行は、それ自体よいものだとしても、あくまでも手段なのですから。<菩薩行=手段><覚り=目的>の関係ははっきりしている。
 ところが、久遠のブッダは、覚りを得た後も、ブッダでありながら、菩薩行を続けているという。菩薩行は、手段ではなくて、それ自体が、目的化している。これはとても大胆な、発想の逆転だと思う。(328頁)

 本書で最も面白いと思い、かつ惹かれた箇所はここである。武道や花道といった〇〇道を重んじる日本人にとって、納得的な部分ではないだろうか。手段の目的化は効率性を重んじる日常においては批判的に捉えられることが多いが、何かを極めようと努力し続けるという意味では大きな可能性を持つものなのではないか。

植木 誰も語っていない空中からの声が聞こえてきたということは、おのずからそれを自得したということです。あるいは、この菩薩の振る舞いが法華経の精神に合致していたということであって、ここには重要なメッセージが込められています。経典読誦などの仏道修行の形式は満たしていなくても、誰人をも尊重する行ないを貫いているならば、それが法華経を行じていることになる。逆に、仏道修行の形式を満たしていても、人間を軽んじたり、睥睨しているならば、それはもはや仏教徒は言えない。ここには、一宗一派や、イデオロギー、セクト主義などの壁を乗り越える視点が読み取れます。(399頁)

 文字が読めず、したがってテクストとしての法華経を読めなかった不軽菩薩が、自ずから仏道を自得したという箇所。文字が読めるかどうか、学問を修めたかどうか、他人より秀でた何かがあるかどうか、といった外形的なものではなく、法華経自体を体得し自身の言動の拠り所としていられるかどうか、が大事なのである。外形的なものではなく、内面に価値を見出すことは、外から見える違いに意味を見出そうとし、その差異に差別を見出そうとする私たちに警鐘を鳴らす。心して読みたい箇所である。

【第737回】『仏教、本当の教え』(植木雅俊、中央公論新社、2011年)
【第41回】『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸著、講談社、2011年)
【第100回】『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎、筑摩書房、2006年)

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