2018年6月30日土曜日

【第849回】『成人発達理論による能力の成長』(加藤洋平、日本能率協会マネジメントセンター、2017年)


 能力という概念を言葉で説明しようとしてもなかなかできるものではない。抽象的な概念を整理してくれるものが、学術的な知見の良さの一つである。成人発達理論を基に、能力の三つの特性を、環境依存性・課題依存性・変動性として著者は整理してくれている。

 それぞれの詳細は本書を紐解いていただくとして、興味深かったのは変動性である。著者が前半で述べているように、私たちの多くは能力および能力が開発されるプロセスを固定的・静的なものとして捉えてしまう。特定の方法を、特定の手段で実践すれば、特定の能力が線形的に身につくのではないかと思いがちだ。

 しかし、能力開発にはダイナミックな要素が影響していることは、私たちの多くが実感として持っているものだろう。では変動するものは何か。著者は変動性を「学習や実践の中における意図的に発生する変化」(69頁)と指摘したうえで、誰にでも生じるものであると以下のように述べている。

 その領域の初心者から熟達者まで、すべての人が大なり小なりの変動性を常に経験しているのです。私たちは、絶えず乱高下する自分の能力に落ち込む必要はなく、そうした変動を所与のものみなして、さらなる実践に励むことが大切になります。能力の乱高下や紆余曲折に捉われることなく、絶え間ない実践を行うことによって、徐々に私たちの能力の成長が実現して行くのです。(68頁)

 熟達者でも変動性の影響を受けているのであるから、そうでない普通の状態の私たちが過度にできたりできなかったりすることを気にかける必要はない、ということであろう。

 ノイズと変動性に関して何が重要なのかというと、自分の学習や実践の中に、どのようなノイズが混入しており、どのような変動性を設けているかを明らかにすることです。「ノイズ」というと、言葉の響が否定的に聞こえますが、ノイズは学習や実践のスパイスの役割を果たします。ノイズがなければ、私たちの学習や実践は、極めて彩りに乏しい単調なものになってしまいます。また、ノイズの特性は、外部環境が生み出す自然なものであったり、私たちが無意識的に生み出しているものであるため、避けようがないものだともいえます。(70頁)

 成長過程における変動性の要因の一つにノイズがある。ノイズを「スパイスの役割」として肯定的に捉えている点が興味深い。たしかに、予定調和的に物事が進むときには、私たちの学びもまた予定調和的なものになってしまう。そうではなくて、なんらかのノイズが挟まることで、予期しない対応能力が身についたり、学習に深みが生じたりするものかもしれない。

 ではどのように学習を深めて行くことができるのか。

 「点」としての知識を真に自分の中で血肉化させるというのは、その知識に自分の言葉を当て、自分の言葉で再解釈された知識を自分の中に取り入れることです。(183頁)

 つまりは、ある状況の中で、自分自身がどのような言動を取り、既存の知識とどのように結びつけ、新たな知識を獲得したのかを言語化する、ということであろう。情報をインプットしてそのままアウトプットする暗記型の学習ではなく、思考というスループットと言語化というアウトプットとを噛み合せることが、能力の成長に不可欠な作用なのである。

 このような能力の成長を、他者が実現することをどのようにサポートするかにまで著者は後半で論を進めている。カール・ニューウェルという身体運動学者による「ニューウェルの三角形」という考え方が興味深い。

 「ニューウェルの三角形」とは、私たちが何らかの能力を高めようとする場合、「人・環境・課題」の3要素とそれらの相互作用を常に考えなければならない、ということを指摘する考え方です。(218頁)

 ここで思い浮かぶのはOJTである。現場でどのような業務をアサインし、サポート体制を設け、いつ・どのようにフィードバックするか。これらを考える際には、ニューウェルの三角形における三つの要素を考え、かつそれがダイナミックに変動することを注視し改訂することが私たちには求められるのである。

【第711回】『「仕事を通じた学び方」を学ぶ本』(田村圭、ロークワットパブリッシング、2017年)
【第66回】『「経験学習」入門』(松尾睦、ダイヤモンド社、2011年)

2018年6月24日日曜日

【第848回】『現代社会の理論』(見田宗介、岩波書店、1996年)


 近代以降における世界的な対戦である第一次世界大戦も第二次世界大戦も、経済的な行き詰まりが一つの大きな契機となって引き起こされた、と教科書で私たちは習った。実際にそうした側面はあるのだろうし、その結果として資本主義が戦争や軍事産業と相互依存関係にあるということは指摘されてきた。

 しかし、著者は、第二次大戦以降、それまでの大戦を引き起こしたレベルと近いオイルショックも金融危機も、世界的な戦争を引き起こさなかった。資本主義諸国は、不況から自力で復興してきたことに、資本主義のポテンシャルを著者は見ている。

 理論としてここで肝要の点は、資本主義という一つのシステムが、必ずしも軍事需要に依存するということなしに、決定的な恐慌を回避し繁栄を持続する形式を見出したということ、この新しい形式として、「消費社会化」という現象をまず把握しておくことができるということである。(15頁)

 資本主義は、私たちが消費を繰り返していく中で経済が循環するという戦争に依存しない消費社会という形式を生み出した。それによって、自律的に成長し続ける経済システムが構築されたというのが現代という社会なのである。

 情報化/消費化が見出した<市場の無限性>という成長の無限空間は、<資源の有限性>という、新しい臨界と遭遇していた。(67頁)

 しかし、地球という有限なリソースが自律的成長の制約となっていることを著者は指摘する。それは、環境問題をはじめとしたシステムの限界の帰結として現れている。

 「大量生産/大量消費」のシステムとしてふつう語られているものは、一つの無限幻想の形式である。事実は、「大量採取/大量生産/大量消費/大量廃棄」という限界づけられたシステムである。
 つまり生産の最初の始点と、消費の最後の末端で、この惑星とその気圏との、「自然」の資源と環境の与件に依存し、その許容する範囲に限定されてしか存立しえない。(68頁)

 私たちは大量生産・大量消費という二つだけをセットとして消費社会の特徴として捉えがちだ。しかし、その前後に採取と廃棄というリソースの制約があることに注目する必要がある。有限な環境の中で、現代の私たちは生きているということを意識する必要がある。

【第142回】『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)
【第164回】『まなざしの地獄』(見田宗介、河出書房新社、2008年)

2018年6月23日土曜日

【第847回】『ビギナーズ・クラシックス 竹取物語』(角川書店編、角川書店、2001年)


 「かぐや姫」の物語として幼少の頃に絵本で親に読んでもらったり、高校の古文の授業でその一節を学ぶなど、竹取物語は私たちにとって身近な存在である。シンプルな構成のために理解しやすく、物語の起承転結もしっかりとしている。

 しかし、古典として受け継がれる物語には、時代を経て伝えられるメッセージがある。著者は、印象的な一部分を読むだけではなもったいなく、全体を理解することの重要性を冒頭で以下のように述べている。

 ほんとうのかぐや姫は、近づく求婚者たちに難題を出して破滅に追いやる冷酷な女である。悪党、人殺しとののしられる非情な女なのだ。
 かぐや姫は天上界で罪を犯し、そのつぐないのために人間界に降りてきたという。では、どのようなつぐないをして、ふたたび月の都に帰るのか。ーー
 ある場面のつまみぐいでは、けっして『竹取物語』の真価をとらえることはできません。全編を読み通して、はじめてかぐや姫の真の姿を、輝く光のなかに発見できるでしょう。(3~4頁)

 「非情な女」とここでは形容しているが、その後の帝とのやり取りも含みながら、次第に人間として成長していく様が描かれていることも、竹取物語の興味深さの一つであると著者は述べている。つまり、単純な美しいストーリー展開の物語ではなく、かぐや姫という一人の人物の心の葛藤と成長を読み取ることができるのである。

 そうであったとしても五人の求婚者への仕打ちにも近い無理難題には恐れ入るばかりである。江戸期に書かれた竹取物語の研究書を用いながら、そこには当時の政権批判が含まれていたのではないかと著者は述べている。

 江戸時代の研究書『竹取物語考』(加納諸平著)には、五人の貴公子のモデルとして実在する人物が紹介されている。(中略)
 作者が実在する皇族・貴族を笑いものにするように構成したのは、時の藤原政権を批判するためだというのである。この一事で『竹取物語』のすべてを説明しきることはできないが、体制批判が作品の内部にあることは確かである。(63頁)

 メタファによって権力者を批判するという手法は、古今東西において有効性を持つ普遍的な原則なのかもしれない。そうしたエネルギーが物語の魅力を増すことになり、各段におけるウィットに富んだ皮肉もまた、興味深いものになるのである。

【第666回】『ビギナーズ・クラシックス 方丈記(全)』(武田友宏編、角川学芸出版、2007年)
【第667回】『ビギナーズ・クラシックス 古事記』(角川書店編、角川学芸出版、2002年)

2018年6月17日日曜日

【第846回】『ビギナーズ 日本の思想 新版 南洲翁遺訓』(猪飼隆明訳・解説、KADOKAWA、2017年)


 今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」を観ていて、西郷隆盛という人物の考え方を改めて学んでみたいと思った。『南洲翁遺訓』はかつて読んだが、今ひとつ理解しきれなかったので、まずは入門書を読もうと方向転換した次第である。

 解説がふんだんにあるという書籍は、入門書としてありがたい。もちろん、苦労しながら原文および訳文のみを読み進めることで学べるものは多いだろう。しかし、最初の入り口としては、入門書でカジュアルに学べるのはいいものだ。

 官は、その職にふさわしい(任に堪えうる)人物を選んでその職に就け、功労があるものには、職ではなく、俸禄を与えて賞し、これを褒めておけばいい(17頁「一 徳懋んなるは官を懋にし、功懋んなるは賞を懋んにする」)

 人事を担当する身として、心したい至言である。私たちはともすると、パフォーマンスが優れた人物を評価する際に、報酬面で報いるだけではなくポジションも変えてしまう。もっといえば、ポジションとリウォードが連動しすぎていると、ポジションを安易に上げてしまいがちだ。

 しかし、ポジションを上げることには十分に留意しなければならない。その人物自体に対するインパクトのみならず、その人物が管理監督するチームにも大きな影響を与えるからである。だからこそ、職ではなく俸禄を与える、というシンプルな西郷の言葉を私たちはよく噛み締めなければならない。

 学問を志すものは、広く学ぶという心がけが必要である。だからといって、広く広くとばかりこだわっていると、あるいは身を修めるのがおろそかになりかねない。だから、つねに自分に克ち、身を修めるよう心がけなければならない。広く学びつつ自分に克地、真の男子たるものは、人を許しても、人に許してもらおうなどと甘えた心を持ってはならない、自分に甘えないということが重要なのだ。(131~132頁「二三 終始己れに克ちて身を修する也」)

 学びを閉ざさず、オープンにすること。その上で、自分自身で謙虚に内省すること。重たい指摘である。

【第446回】『代表的日本人』(内村鑑三、鈴木範久訳、岩波書店、1995年)
【第644回】『「明治」という国家(上)』(司馬遼太郎、日本放送出版協会、1994年)

2018年6月16日土曜日

【第845回】『ビギナーズ・クラシックス 源氏物語』(角川書店編、角川書店、2001年)


 源氏物語にはこれまで苦労してきたが、本書は、ちょうど良い入門書という感じがする。高校時代に「古文」は得意な科目であったので、大学生活を送っている際に本作品を読んでみようと試したが、中世貴族社会のどろどろ感が嫌で放り投げた。それは、現代語訳として出ているものをその後に読んでも変わらなかった。どろどろ自体は、古文であろうと現代文であろうと変わらないのだから、当たり前だったのかもしれない。

 本書は、各巻の背景や登場人物の解説に重きが置かれている。ために、人間関係のどろどろとした部分に嫌気がする私のような人間にはちょうど良い。もちろん、そうしたものを読みたい方にとっては物足りないのかもしれないが。

 文学は、歴史書と違って、事実の記録ではない。人生の真実を追求するために、人間世界の善事も悪事もとりあげる、と。事の価値判断などは、後回しである。近代文学論と堂々四つに組んで、遜色のない理路を備える。(230頁)

 巻二十五・蛍で源氏が文学論を語るシーンを踏まえての解説である。たしかに、文学とはなぜ存在するのか、そこに読者は何を見いだすことができるのか、といったテーマに対して考えさせられる内容である。

 大学入試のための試験問題として解くと、その物語の背景や深みについてまで思いが至らない。塾や予備校とは違い時間をかけて生徒に学ばせる時間がある高校教師には、学問への興味を喚起する役割もあるのだろうがそうした力量のある教師は稀有である。そのため、物語の深みやメッセージに触れると新鮮な思いがする。

 宇治は『源氏物語』「宇治十帖」の舞台となった地名である。当時、貴族の行楽地として愛されたが、その一方、古くから「憂し」の掛詞として和歌に用いられてきた。しかも、この「憂し」という語は、勅撰八代集の中で使用頻度がベストスリーに入る歌語である。和歌の伝統の中核を形づくるキーワードなのだ。宇治は、そうした憂愁の伝統から選ばれた地名なのであろう。(383頁)

 こうした解説も面白い。古文の入試問題でも掛詞はよく出てきたように記憶している。その地に興味が湧くものであり、宇治を改めて訪れてみたくなった。

【第667回】『ビギナーズ・クラシックス 古事記』(角川書店編、角川学芸出版、2002年)
【第666回】『ビギナーズ・クラシックス 方丈記(全)』(武田友宏編、角川学芸出版、2007年)

2018年6月10日日曜日

【第844回】『「自分」の壁』(養老孟司、新潮社、2014年)


 「自分」とは何か。著者は、著者自身に関することではなく一般的な意味での「自分」という存在に幼少の頃から疑問を持ち、考え続けたことが、本書を著すことになったという。真摯に考え、悩み、「自分」という存在に取り組もうとする著者の揺らぎに本書を通じて共感しながら、私たち自身も考えることができるだろう。

 欧米は、「個」を立てる一方で、絆を維持する機能を教会が持っていたと考えられます。ところが、日本、特に都市では、そういう存在がないため、結果として新宗教に向かう人が増えてしまった。そういう宗教が全部否定されるようなものではないのですが、その中にオウム真理教もあったわけです。(110頁)

 日本と欧米との比較。どちらが良い/悪いではなく、人々の精神的な拠り所の違いが、都市化によってどのような差異を与えたのか。日本におけるムラ社会の崩壊に、多くの日本人は適応した結果として高度経済成長を成し遂げたが、適応できなかった人々が、精神的に依拠する対象を誤ってしまった。そうした側面に私たちはもっと刮目する必要があるのだろう。

 日本の場合は、絆、共同体の代用品として会社が機能してきました。戦後かなりの間は、これがきちんと機能してきた。ところが、そこにも「個」を立てるようになっていった。業績主義、成果主義です。(111頁)

 さらには、日本人の一定層がムラ社会の代替物として依拠してきた企業における変化が指摘されている。2000年前後に大企業でも急速に導入された成果主義が否応なく社員に個としての意識を齎した。個の意識が長い歴史の中で確立している米国における成果主義の浸透と、そうでない日本企業における成果主義の導入が、結果において大きく異なったことは当たり前なのかもしれない。

 仕事というもの自体が、本質的に「個」をつっぱるわけにはいかないものなのです。相手がなければ仕方がない。自分だけの仕事、というものもまったくないわけではありませんが、少なくとも現代社会では、人のためにならなければお金はもらえません。それが嫌で、「完全に自分のための仕事」をしたいのならば、孤島に行ってロビンソン・クルーソーをやるしかない。そんな人生に意味がないのは誰にでもわかる話です。(215頁)

 それでも、企業における仕事によって、他者に貢献することで自身の手応えを得られるという構造は見逃せない。当たり前ではあるが、人は一人では生きられないということは、働いていると身をもって実感することができるものである。

【第834回】『京都の壁』(養老孟司、PHP研究所、2017年)

2018年6月9日土曜日

【第843回】『日本精神分析』(柄谷行人、講談社、2007年)


 中世に至るまで帝国がヘゲモニーを担っていたのに対して、フランス革命やアメリカ独立戦争を契機として近代国民国家が生まれ、主流な国家形態は国民国家へと移行した。なんとなく、帝国は覇権主義的で、「悪の帝国」などといった表現があるようにネガティヴな印象を抱くことがある。しかし、これは、国民国家のパラダイムにいる私たちの偏見によるものなのかもしれない。

 では、帝国とは何か。その特徴を、以下の二つの点から著者は解説している。

 「帝国」は、多数国家、多数民族を包摂するものです。したがって、それは一部族や都市国家とは異質な原理をもっていなければならない。(20頁)

 第一の特徴は、多様な民族や国家・都市を束ねる原理である。これは、ローマ帝国におけるキリスト教のような存在を思い浮かべれば良いだろう。各都市が自律的に共存共栄していた状態から、キリスト教によって一つのローマ帝国が誕生したのは『ローマ人の物語』を読めばよくわかる。

 大事なのは、世界言語、あるいは普遍的言語です。その特徴は、基本的に音声から独立して外在することです。普遍的な超越的な概念は、多様な音声(言語)から独立している。そうでなければ、普遍的・超越的ではありえないのです。(22頁)

 第二の特徴は、表記言語としての共通言語である。多様な民族や都市では多様な音声言語が存在している。心理的にも物理的にも遠い存在を一つの帝国として統治する主体にとっては、行政管理上、共通の表記言語が必要だ。

 こうした二つの特徴から考えれば、なぜ帝国から自立しようとした主体が国民国家を形成しようとしたかが浮き上がってくる。

 第一の点については、宗教戦争が一つの契機となったのであろう。原理主義という現代的な事象を考えればイメージできるように、異なる宗教間での信念対立はエスカレートしやすい。したがって、宗教や原理原則を基にした帝国間ではコミュニケーションが取りづらくなく。これは、形式上の帝国が表面的には弱体化した現代においても、宗教や原理原則を振りかざす覇権主義的な国家が他国と対立を招きがちであることを思い浮かべれば良いだろう。

 第二の点については、音声中心主義に基づく民族独立運動が挙げられる。「一つの国家が帝国から自立しようとするとき、自らの文学言語をもつ、そして、その時、音声中心主義的な考えがとられる」(25頁)傾向が国家には存在する。「国語」は近代国民国家の主要な構成要素の一つなのである。言文一致を希求する運動は、何も大正期の日本において顕著だったものではなく、他国においても同じようなフェーズで生じる国民国家に特有の運動だったのである。

 こうした二つの特徴に対するアンチテーゼとして生じたという側面が、国民国家という存在には厳然とある。では、何をもって国民国家に属する国民を束ね、国民が共通で話しかつ書く国語で表象するのか。その存在こそが、ナショナリズムである。

 ナショナリズムは確かに想像力の産物です。しかし、重要なのは、それが宗教を幻想とみなす啓蒙主義のあとにこそ出てきたということです。つまり、それは、啓蒙では宗教を取り除けないこと、取り除いたとしても別の形でそれがあらわれるということを意味します。(44頁)

 このように捉えれば、国民国家にナショナリズムが付随してくることはいたしかたないことなのかもしれない。ナショナリズムは必要悪な存在として一旦受け容れた上で、私たちが潜在的に抱くナショナリズムを徒に煽ろうとする主体や言説に、自覚的かつ冷静に対処することが求められているのではないだろうか。

【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
【第292回】『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)

2018年6月3日日曜日

【第842回】『無知の壁』(養老孟司/アルボムッレ・スマナサーラ、サンガ、2014年)


 脳科学と仏教の碩学同士の対話。両者それぞれの書籍自体を興味深く読んできた身としては、その二人による対談というだけで興味が喚起される。加えて、本書を読めばお分かりの通り、二人のベクトルは近く、対談が噛み合っているのですんなりと入ってくる。欲を言えば、もう少し反論し合うところがあってもと思うものだが、それは無い物ねだりというものであろう。

スマナサーラ 世の中は、明日どうなるかわかりません。我々はずっと精神的に、「どうなっても対応するぞ」というオープンアプローチ、開放されたアプローチでなければいなければいけないのです。それなのに、自分の世界で固まっていたら、自分の思い通りでないものすべてに対して怒らなくてはいけないでしょう。(中略)最初から「思い通りにいかないもんだ」とわかって、周りがどんなに自分の意に反することをやってきても、「対応してやるぞ!」「怒らないで行動するぞ!」というチャレンジャー精神で行きたほうが、ずっと楽です。しかし、それをするためには自我が邪魔なのですね。(53頁)

 安易な自分探しを否定する両者。スマナサーラ師はその理由を、イデア的なあるべき自己像という静的なものを創り出すことで、自分自身を苦しめてしまい、かつ変化に対応する動的な自己像を排除してしまうこととして挙げている。これは、近代的自我のデメリットの一つであり、自我によるクローズドな世界観の問題とも換言できるであろう。

スマナサーラ 死を実感すると心が緊急モードに入ります。すべての能力を一点に集中します。脳の働きを逆転して解脱に達するためには、このパワーが必要です。ですから、仏教は、つねに迫ってくる死から逃げ回るのではなく、死に直面して観察するのです。死に「こんにちは」と言うのです。現実的には、自分の死に「こんにちは」と言えないので、他人の死を観察するという修行をするのです。人生を明るく活発に、有意義に生きたいと思うならば、死を認めることです。(75頁)

 また、死を遠ざけてきた近代社会を踏まえて、死に直面することで生をたのしみ、現在を重視した生き方ができると説く。逆説的ではあるが、納得的な示唆である。卑近な例だが、体調を壊す時に体調のことを大事に思うということと同じであろう。

養老 まじめな人が陥りやすい罠というのは、嫌いなものをなくそうと思うことでしょう。人間が何かを嫌うというのは、もうしょうがない。そう思って、ずらせばいいんですよ、とりあえず。どんどんずらせるようにすれば、具体的には苦労がないですよね。(141頁)

 オープンに生きるということをヒントとして提示しているこの箇所も面白い。嫌いなものとは相対的なものであるという指摘は納得的である。それをなくそうとすることは不可能である。しかし、不可能であるからこそ、自分自身の努力によって嫌いなものをずらしていくという発想の逆転から学ぶことは多いのではないだろうか。

【第831回】『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎/植木雅俊、筑摩書房、2015年)
【第834回】『京都の壁』(養老孟司、PHP研究所、2017年)

2018年6月2日土曜日

【第841回】『求めない』【2回目】(加島祥造、小学館、2007年)


 今回読み直して、心にしみてきた。最初に読んだ二十代半ばでは、さっと読んでしまうだけになってしまい、三年前でもまだそれほど切実には入ってこなかった。

 人並みに人生経験を積んでくるとじわじわとしみてくる書籍というものがある。本書は、私にとって、まさにそうした一冊である。

「自分全体」の求めることは
とても大切だ。ところが
「頭」だけで求めると、求めすぎる。
「体」が求めることを「頭」は押しのけて
別のものを求めるんだ。
しまいに余計なものまで求めるんだ。(4頁)

 タイトルにある「求めない」は、すべてを求めないということではないと著者はいう。では、何を「求めない」のか。端的にいえば、頭で考えて求めてしまう内容や姿勢がもたらす弊害を指摘し、頭で考えて求めすぎないことを主張しているのである。

 頭は自分自身にとって部分にすぎない。しかし、その部分が占める比率が上がりすぎ、その結果、自分自身を生きづらくするという疎外が生じているのではないか。そう考えてみればバカバカしいことであり、頭で考えて求めることを手放してみるという著者の提案を受け入れてみることのも良いのではないか。

求めないーー
すると
自分の好きなことができるようになる(23頁)

 ここでの「自分」は頭で考える「自分」ではなく「自分全体」を指している。したがって、自分自身の身体・感情・精神といった自然に即したものと捉えるべきであろう。頭で考えすぎずに本性に従って行動してみること。そうした瞬間を後から振り返ってみると、無理がなく自分自身が潜在的に欲していることと整合していることもあるだろう。

求めないーー
すると
自分が貴いものと分かる
だって
求めない自分は
誰にも属さないから(76頁)

 無理がない自然な言動は、自分自身に属するものである。すなわち、他者から評価されたいという承認欲求に基づく自己効力感ではなく、自己肯定感を涵養できるのであろう。求める自分とは、自由な言動に見えて、他者の視線を耐えず気にし、他者に従属するマインドセットに基づく存在なのである。

 とはいえ、私たちは求めてしまう。「求めない」を実践することは難しい。しかし著者は、そうした弱い私のような読者に対して、極めて現実的な救いの一言を述べてくれる。

一切なにも求めるな、
と言うんじゃあないんだ
どうしようか、
と迷ったとき
求めないーーと
言ってみるといい。
すると
気が楽になるのさ。(144頁)

【第98回】『タオ 老子』(加島祥造、筑摩書房、2006年)
【第540回】『老子【3回目】』(金谷治訳、講談社、1997年)