「自分」とは何か。著者は、著者自身に関することではなく一般的な意味での「自分」という存在に幼少の頃から疑問を持ち、考え続けたことが、本書を著すことになったという。真摯に考え、悩み、「自分」という存在に取り組もうとする著者の揺らぎに本書を通じて共感しながら、私たち自身も考えることができるだろう。
欧米は、「個」を立てる一方で、絆を維持する機能を教会が持っていたと考えられます。ところが、日本、特に都市では、そういう存在がないため、結果として新宗教に向かう人が増えてしまった。そういう宗教が全部否定されるようなものではないのですが、その中にオウム真理教もあったわけです。(110頁)
日本と欧米との比較。どちらが良い/悪いではなく、人々の精神的な拠り所の違いが、都市化によってどのような差異を与えたのか。日本におけるムラ社会の崩壊に、多くの日本人は適応した結果として高度経済成長を成し遂げたが、適応できなかった人々が、精神的に依拠する対象を誤ってしまった。そうした側面に私たちはもっと刮目する必要があるのだろう。
日本の場合は、絆、共同体の代用品として会社が機能してきました。戦後かなりの間は、これがきちんと機能してきた。ところが、そこにも「個」を立てるようになっていった。業績主義、成果主義です。(111頁)
さらには、日本人の一定層がムラ社会の代替物として依拠してきた企業における変化が指摘されている。2000年前後に大企業でも急速に導入された成果主義が否応なく社員に個としての意識を齎した。個の意識が長い歴史の中で確立している米国における成果主義の浸透と、そうでない日本企業における成果主義の導入が、結果において大きく異なったことは当たり前なのかもしれない。
仕事というもの自体が、本質的に「個」をつっぱるわけにはいかないものなのです。相手がなければ仕方がない。自分だけの仕事、というものもまったくないわけではありませんが、少なくとも現代社会では、人のためにならなければお金はもらえません。それが嫌で、「完全に自分のための仕事」をしたいのならば、孤島に行ってロビンソン・クルーソーをやるしかない。そんな人生に意味がないのは誰にでもわかる話です。(215頁)
それでも、企業における仕事によって、他者に貢献することで自身の手応えを得られるという構造は見逃せない。当たり前ではあるが、人は一人では生きられないということは、働いていると身をもって実感することができるものである。
【第834回】『京都の壁』(養老孟司、PHP研究所、2017年)
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