2018年6月9日土曜日

【第843回】『日本精神分析』(柄谷行人、講談社、2007年)


 中世に至るまで帝国がヘゲモニーを担っていたのに対して、フランス革命やアメリカ独立戦争を契機として近代国民国家が生まれ、主流な国家形態は国民国家へと移行した。なんとなく、帝国は覇権主義的で、「悪の帝国」などといった表現があるようにネガティヴな印象を抱くことがある。しかし、これは、国民国家のパラダイムにいる私たちの偏見によるものなのかもしれない。

 では、帝国とは何か。その特徴を、以下の二つの点から著者は解説している。

 「帝国」は、多数国家、多数民族を包摂するものです。したがって、それは一部族や都市国家とは異質な原理をもっていなければならない。(20頁)

 第一の特徴は、多様な民族や国家・都市を束ねる原理である。これは、ローマ帝国におけるキリスト教のような存在を思い浮かべれば良いだろう。各都市が自律的に共存共栄していた状態から、キリスト教によって一つのローマ帝国が誕生したのは『ローマ人の物語』を読めばよくわかる。

 大事なのは、世界言語、あるいは普遍的言語です。その特徴は、基本的に音声から独立して外在することです。普遍的な超越的な概念は、多様な音声(言語)から独立している。そうでなければ、普遍的・超越的ではありえないのです。(22頁)

 第二の特徴は、表記言語としての共通言語である。多様な民族や都市では多様な音声言語が存在している。心理的にも物理的にも遠い存在を一つの帝国として統治する主体にとっては、行政管理上、共通の表記言語が必要だ。

 こうした二つの特徴から考えれば、なぜ帝国から自立しようとした主体が国民国家を形成しようとしたかが浮き上がってくる。

 第一の点については、宗教戦争が一つの契機となったのであろう。原理主義という現代的な事象を考えればイメージできるように、異なる宗教間での信念対立はエスカレートしやすい。したがって、宗教や原理原則を基にした帝国間ではコミュニケーションが取りづらくなく。これは、形式上の帝国が表面的には弱体化した現代においても、宗教や原理原則を振りかざす覇権主義的な国家が他国と対立を招きがちであることを思い浮かべれば良いだろう。

 第二の点については、音声中心主義に基づく民族独立運動が挙げられる。「一つの国家が帝国から自立しようとするとき、自らの文学言語をもつ、そして、その時、音声中心主義的な考えがとられる」(25頁)傾向が国家には存在する。「国語」は近代国民国家の主要な構成要素の一つなのである。言文一致を希求する運動は、何も大正期の日本において顕著だったものではなく、他国においても同じようなフェーズで生じる国民国家に特有の運動だったのである。

 こうした二つの特徴に対するアンチテーゼとして生じたという側面が、国民国家という存在には厳然とある。では、何をもって国民国家に属する国民を束ね、国民が共通で話しかつ書く国語で表象するのか。その存在こそが、ナショナリズムである。

 ナショナリズムは確かに想像力の産物です。しかし、重要なのは、それが宗教を幻想とみなす啓蒙主義のあとにこそ出てきたということです。つまり、それは、啓蒙では宗教を取り除けないこと、取り除いたとしても別の形でそれがあらわれるということを意味します。(44頁)

 このように捉えれば、国民国家にナショナリズムが付随してくることはいたしかたないことなのかもしれない。ナショナリズムは必要悪な存在として一旦受け容れた上で、私たちが潜在的に抱くナショナリズムを徒に煽ろうとする主体や言説に、自覚的かつ冷静に対処することが求められているのではないだろうか。

【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
【第292回】『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)

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